オーストリアから、今この時代にぜひ見ておきたいドキュメンタリー映画が届いた。
1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝担当大臣だったゲッベルスの秘書を務めたブルンヒルデ・ポムゼル(1911年1月11日生まれ)が103歳当時に69年の沈黙を破って語ったインタビューと、世界初公開のアーカイブ映像で構成された貴重な作品だ。
日本公開にあたり、4人の監督のうちの2人、クリスティアン・クレーネスとフローリアン・ヴァイゲンザマーが5月に来日。大阪大学大学院国際公共政策研究科木戸衛一准教授が、法学部の授業「現代ヨーロッパ政治」で本作の上映と2人の監督との対話を企画した折に合同インタビューを行った(通訳は木戸准教授)。
――原題タイトル「A GETMAN LIFE(あるドイツの人生)」に込めた意味は?
ヴァイゲンザマー(以下、W) ポムゼルがゲッベルスの下で働いたことは特殊なことかもしれないが、彼女の人生は当時のドイツ人の典型的な人生といえる。ドイツだけではなく、オーストリアにも、彼女と同じような人が何百万人もいて、あの独裁を支え、人権侵害に見て見ぬふりをした。彼女は幼少時には口答えを許さぬ父の下で非常に厳しい教育を受けた。そして戦後は、過去にきちんと向き合わずにキャリアを積み重ねていった。これらも当時の典型的、平均的なドイツ人の生き方だった。
「ゲッベルスと私」という日本語タイトルも良いと思う。「私」とは、ポムゼル個人を指すのではなく、誰にでも当てはまる言葉だからだ。
クレーネス(以下、K) 映画にセンセーショナルなタイトルを付けることはよくあるが、私たちはこの映画に抑制的なタイトルを付けることを選んだ。映画自体も淡々と語られていることは、見た人にはわかってもらえるはずだ。
――30時間に及ぶインタビューは、どのように行われたのか?
K 2013年秋と14年春に2回にわたってミュンヘンのスタジオで行った。それぞれに複数回行っているが、一貫性を保つために彼女には毎回、同じ服を着てもらった。
W 彼女はミュンヘンに住んでいたが、私たちは自宅で撮影することはしたくなかった。背景に本棚などが映り込まない中立的な場所を選んだ。この映画は時代を超えた普遍的なテーマを扱っているので、特定の場所でなく背景のないスタジオでの撮影を選んだ。
――ポムゼルの語る回想と現代社会とのつながりは?
W 彼女自身が、時に当時と今を比較して話していた。例えば、かつて権威主義的な教育をされたと語った時に「今の人たちは政治的なことを自ら考えられるような教育をされている」と話したりしていた。映画の作り手として私たちも、当時と今日の類似性、近似性は意識していたが、あまりにストレートすぎるアプローチは避けた。ユダヤ人が迫害されていたことを見て見ぬふりをしたことと、シリア難民が地中海で何人もおぼれ死んだニュースを見た後で、平然とパーティーをするような現在の生活は似ていると彼女が話したシーンは映画には盛り込まなかった。
K 戦後5年間ソ連に抑留されていたことやその後キャリアを積んでいったことなどは彼女はあまり語らなかったし、我々もその時期のことにはほとんど焦点を当てなかった。それよりも子ども時代や当時受けた教育が第二次世界大戦の破局に至っていく流れを重視した。
――103歳の女性が、これほどクリアな記憶を克明に語ったのは驚きだ。
W 彼女は稀有な女性だ。最初は、彼女自身が年齢を気にして、最後までちゃんと話せるか不安に思っていた。そして、話し通せたことを自分でも驚いていた。
K そんな人に巡り合えたことは本当にラッキーだった。撮影が長引き、出来上がりを見届けることができるか、彼女はとても不安に思っていた。まして完成した映画を見ることができるとは思っていなかった。完成時、彼女は105歳で、ミュンヘンの上映会に参加した。見届けることができたのは、見栄っ張りな自分の性格が奏功したのかなとも話していた。生まれて初めて赤じゅうたんの上を歩き、自分を主人公にした映画ができたと自慢していた。上映後には批判的な質問もあったが、よく出演したという賞賛の声もあり、うれしく受け止めていた。そして、人生の終わりに、鏡を見るように自分の人生を振り返ることができて良かったと強調していた。若い人に向けて「自分の犯した“過ち”(彼女は決して“罪”とは言わない)を繰り返してほしくない」と語っていた。
――かつて報道でひどい目に遭ったポムゼルは最初、出演を渋っていたと聞いたが?
W 最初に断ってきた時は、高齢の自分には映画を作る仕事ができるような時間はないということだった。だが、自分の一生をもう一度振り返るいいチャンスかもしれないと考え直してくれた。
K 彼女にとってある種のカタルシス、たまったものを吐き出す機会になったことは良かったのかもしれない。2017年1月27日に彼女は亡くなった。この日付は実は国連が提唱しているホロコースト記念日だ。1945年1月27日にアウシュビッツが解放されたことをもって「メモリアルデー(覚えておく日)」とされている。全く偶然のことではあるが、彼女の言葉を後世の世代が心に留めておく意味でも、意味深長なものがあると思う。
――4人の監督の中で役割分担はあるのか?
W 決まった分担はない。共同制作者として平等にかかわっている。議論しながら作るので、時間はかかるが、互いの信頼関係に基づき親和的な雰囲気の中で仕事をしている。
――映画の中で使われたアーカイブ映像の発掘も全員で行ったのか?
W ワシントンのホロコースト記念博物館などにあったものを、4人で調べて発掘した。資料映像を使うことで、ポムゼルの記憶違いや証言の矛盾を補完しようとした。映像の調査活動にはのべ800時間費やした。オリジナル映像にこだわった理由は、編集されコメントや音楽が入った映像を使いたくなかったからだ。宣伝映画を使う際には、特定の方向に流されないよう細心の注意を払った。人間は誘惑されやすく、容易に悪に魅入られる。調査中も目をそむけたくなるような映像もあり、何週間も気が滅入る思いをした。そのため、この時代の映画を作るのは心情的には懲り懲りだと思っていたが、先日オーストリアで105歳のホロコースト体験者に出会ってしまい、来日する直前に彼のインタビューを撮り終えた。ポムゼルは同調者、彼は被害者の立場から同時代を語っている。
K 解放後の強制収容所を撮影したアーカイブ映像の中には、いつどこで撮ったものかわからないものもあった。
W ナチスがユダヤ人に対して行ったホロコーストは、今後も起こりうるものだと警告したい。彼らは工場のように効率的に人を殺した。工業化・官僚主義化が進むと、人は対象から距離を置いてしまう。上意下達の組織の中では「命令は命令だ」と言われる。果てしない命令の連鎖の中で、結局、誰も責任を取らない。ガス室にガスを入れた人間は、命令によってそれを行った。
K 強制収容所で残虐な殺人にかかわった男たちは、家に帰ればよき父・よき夫だっただろう。そして、そんな自分に矛盾を感じることはなかった。
――宣伝省で働いていた当時のことを語る彼女は誇らしげにも見えた。
K 宣伝省で働いていた当時は、自分が悪に加担しているとは決して思っていなかった。与えられた仕事をきっちりこなし、義務を果たそうとしていた。1940年代当時の家父長的な社会の中では、ポムゼルは大変モダンな女性といえるだろう。生涯結婚せず、自分の才覚で仕事をして生きた、モダンで例外的な女性だった。
W 宣伝省で働く時に彼女が取った戦略が「見て見ぬふりをする」ということだったのではないかと思う。何が起こっているか知らなければ自問することもない。知ろうとすれば、自分の周りに悪がいたということを知ることもできた。それをしないことで自分の心理的な負担を軽くしたといえるだろう。冒頭のポムゼルの「私はエゴイストなのか?」という独白はその表れといえる。
――映画の中でポムゼルは「悪魔はいるが、神はいない」と言っていた。死ぬまでそう思っていただろうか?
K もともと彼女は宗教的な教育を受けていたはずだが、いつの時点かはわからないが、神を信じなくなった。宣伝省で働いていた経歴からして、戦後「悪魔がいる」と思うに至ったのは自然なことだったと思う。
W 他方で彼女は、神を信じている人をうらやましいと思っていた。困難に直面した時、神に祈ることができる人はいいわね、と。
――映画完成までの3年間でヨーロッパの情勢は随分変わった。
K 2013年に映画制作を始めた時はまだ、ヨーロッパの右傾化傾向は顕著ではなく、歴史の記録として制作に着手した。しかし2015年に大量の難民問題が起こり、映画完成時には、単なる歴史映画ではなく、極めて今日的な意味を持つものとなったと感じている。
W 映画を撮り終えて、いかに人間は簡単に悪のサイドに転んでしまうのかを知った。何らかの岐路に差し掛かった時に、自分はどうするのか。観客には考えてほしいと思う。
K 反省する機会が多ければ多いほど、過去の過ちを人類が繰り返さないであろうという希望も大きくなると信じている。
【公開情報】6月16日(土)より岩波ホールほか全国劇場ロードショー。関西では6月30日(土)からシネ・リーブル梅田、8月11日(土)から京都シネマ、順次シネ・リーブル神戸 で公開。 |