【追悼・津村明子さん】大阪府初の女性部長など歴任、12/19ゆかりのドーンセンターでのお別れ会に60余人が参列

2021年12月19日、ドーンセンター特別会議室で

訃報が届いたのは2021年7月29日、「働く女性の人権センターいこ☆る」のメーリングリストだった。関西の働く女性たちの先頭に立ち、明るい笑顔と柔らかな声で女性たちを鼓舞し続けてきた津村明子さんがリハビリ中の施設で新型コロナウイルスに感染し、4月17日に病院で亡くなっていたという。享年86歳。

植本眞砂子さん(高齢社会をよくする女性の会・大阪)、伍賀偕子さん(元大阪総評オルグ)、村上幸子さん(働く女性の人権センターいこ☆る)が呼びかけ、12月19日ドーンセンター特別会議室で開かれたお別れ会には、60人を超える人たちが集まって別れを惜しんだ。

 

津村明子さんは1935年1月1日、兵庫県尼崎市に生まれた。59年京都大学文学部を卒業し、24歳でNHK大阪放送局に入局。「おかあさんといっしょ」などの教育番組のディレクターとして働きながら、日本放送労働組合関西支部婦人部長を務めた。

61年に大学時代のクラスメート津村寛二さんと結婚。一人息子を出産した後も働き続け、73年大阪総評婦人協議会常任委員、77年から11年間は同協議会の議長を務めた。

88年にNHKを退職し、大阪府生活文化部参事 兼 府立婦人会館館長に。91年4月から2年間は、大阪府で初めての女性部長として生活文化部長を務めた。

93年5月、「高齢社会をよくする女性の会・大阪」発足と同時に代表に。94年11月、その代表を退き、初代ドーンセンター館長。98年3月に63歳で定年退職した。

その後も、98年5月から2011年まで大阪府生活協同組合連会長を務め、99年9月、研究会「職場の人権」初代事務局長、2004年に発足した「働く女性の人権センターいこ☆る」では15年まで代表、05年「9条の会おおさか」「おおさか女性9条の会」の呼びかけ人になるなど、エネルギッシュに活動した。

 

参列者たちの別れの言葉の中で、呼びかけ人でもある伍賀さんは1978年12月2日付朝日新聞「論壇」に寄せた津村さんの「労基法『改正』に異議/婦人労働者にはメリットがない」を「歴史的な論文」と称えた。

男女雇用機会均等法の成立前夜、政府の諮問機関・労基法研究会が「労働の場の男女平等を進めるためには、母性保護は妊娠・出産に直接関係するものに限る必要がある」と“保護ぬき平等”の報告を出したことへのカウンターパンチだった。

ともに女性労働をリードしてきた存在で、94年に津村さんから「高齢社会をよくする女性の会・大阪」の代表を引き継ぎ7年間務めた竹中恵美子さん(大阪市立大学名誉教授・労働経済学)からは「東京に在住で高齢(92歳)のため参列できなくて残念 」とのメッセージが寄せられた。

そのほかの関係者たちの話の中では、大阪府初のプロパーの女性部長が誕生したことや関西エリアのNHKで3人の女性支局長が誕生したことなど、津村さんが切り拓いた道を後輩たちが歩んでいることなどが紹介された。

古い手帳を繰っていたら、津村明子さんとお会いしたのは1982年5月10日だったとわかった

伊田久美子さん(大阪府立大学客員研究員)は学生時代に、大阪総評婦人協議会議長時代の津村さんを、京都大学に招いて講演会を行った思い出などを披露。筆者は、その講演会を聞いていた縁を頼りに、大阪で編集の仕事に就いた時にNHKに電話して津村さんに面会を申し込んだことを話した。

梅田の喫茶店でお会いした津村さんは開口一番「仕事に行くお洋服に困るわよね? 動きやすい服装であなたが好きな服を着ていいのよ」。働く女性の悩みに精通していらした。

一番印象に残っているのは「子どもを産んでも辞めちゃダメよ。低空飛行でいいから続けることよ」という言葉。私は今も、産休や育休を取る働く女性の後輩たちに「大先輩の言葉」として伝えている。

 

最後に夫の津村寛二さんが「10歳の時、空襲で家を焼かれ、食うや食わずの暮らしを経験したことが、明子が女性も働いて自分の食い扶持を稼がなくてはならないと思い続けた根底にあったと思います。希望の職に就くために1年待ったほどでした。遺骨で戻ってきたこともあり、今日まで葬儀にあたる会をもてませんでしたが、ゆかりのドーンセンターでお別れの会を開いていただき、明子も喜んでいると思います」とあいさつ。

花に囲まれた遺影に向かって「良かったね、明子」と語りかけて涙を誘った。(大田季子)




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