温かな人間模様を描くドキュメンタリー作品を発表してきた大宮浩一監督の最新作「ケアを紡いで」(89分)が、4月8日(土)から関西で公開される。主人公は、27歳でステージ4の舌がんと診断された看護師の鈴木ゆずなさん。仕事を休んで治療を続ける彼女の日々の暮らしをいとおしむような姿勢が、見る人の心に共感を広げそうだ。公開前に来阪した大宮監督に話を聞いた。
【大宮浩一監督ロングインタビュー】
★ゆずなさんとの出会い
――この映画を作るきっかけは?
僕が作った映画「ただいま それぞれの居場所」(2010)からのお付き合いをしているNPO「地域で共に生きるナノ」(埼玉県三郷市)の谷口眞知子さんから電話をいただき、「うちの新しい利用者でステキなご夫婦がいらっしゃる」と教えていただいたのが、鈴木ゆずなさんを知った最初のきっかけです。電話口で病状を聞いて、谷口さんが紹介してくださるということは、映画に、というか、映像にしないかという意味合いだとは理解していたのですが、その段階では「できないな」と思っていました。
谷口さんとは長いお付き合いですし、会いもしないでお断りするのは失礼だと思い、2021年10月にご自宅に伺って、ご夫婦と谷口さん、4人でお会いしたのが初対面でした。
断るつもりで行きましたが、ご夫婦2人の人柄がすごく爽やかで、病気のこともすごく丁寧に教えてくれて、初めて聞く「AYA世代※」のことも丁寧に教えてもらいました。
※【AYA世代】Adolescent(思春期) & Young Adult(若者成人)の頭文字。概ね15歳から39歳のがん患者のことで、多くが就学や就職、出産や育児など人生の大切な場面に直面して大きな困難を抱えているにもかかわらず、医療費制度と介護保険制度の谷間で、経済的な支えとなる助成制度がほとんどない。
お2人と話したのは2時間ぐらいの時間でしたが、そういう状況にあってもすがすがしい若いご夫婦に少し心が動きました。その日の最後に「どういう出口になるかは別にして、カメラマンを探して少しずつ撮影をしてみましょうか」ということで、4、5日経ってから具体的に撮影をしたという流れです。
――撮影はどなたが?
田中圭さんという30代前半の女性です。20代のころ彼女自身がヤングケアラーでした。ゆずなさんも話しやすかったと思います。
――企画に「鈴木ゆずな」とありますね。
こういう形で作品としてできた時に、企画はゆずなさんだろうと思いました。紹介していただいたのは谷口さんですが、今回はゆずなさんが自分の思いや葛藤を発信したいという気持ちから始まった企画という意味合いが強いので、ゆずなさんをクレジットしました。
――ご本人が希望されたわけではないのですね?
ゆずなさんは映画とか具体的なことは言っていません。ただ、発信したいと。ありのままを見て、記録してほしいという言い方でした。
最初に会いに行った時、プライベートフィルムという言葉は使わなかったですが、撮ってまとまったとしても外部に出すのではなく、ご夫婦お2人とナノの皆さんに見てもらえればいいなというつもりでした。
――なるほど。それがまとまった後で「公開していきましょう」となったのは、どういう流れなのですか?
大まかな編集がほぼ固まった去年の5月末に、夫の翔太さんと谷口さんにまず見てもらいました。その時に翔太さんに大変喜んでいただいて「宝物にさせてもらいます」と感謝されました。その後「たくさんの人に見てほしいですね」という話になり、7月に三郷市で上映会をすることになりました。僕は「公開できるかどうか、探ってみますね」と伝え、配給会社の東風さんに見てもらって「やりましょう」ということになりました。
★ゆずなさんが冷静で客観的な理由とは?
――ゆずなさんは自分の病状に対しても冷静で、常に医療者としてのまなざしを持っていたように感じました。
看護師さんだったので一般の方よりは自分の状況がわかっていたと思います。やりたいことリストを作っていましたが、「やりたいことをやっていく」ことは、ゆずなさんの心の中で意識されていたと思います。富士山に登った時には脳に転移していましたが、できるうちにリストを少しずつつぶしていきたいと考えていたと思います。強い人ですね。
――病状だけでなく、自分の心のありようについても、冷静に客観的によくわかっている人ですよね。感情に溺れないというか。
そうなんです。僕に送ってくるLINEも感情が高ぶって発信しているのではなく、静かに冷静に発信している。サバイバーとしてがんが「治った」「消えた」と語っている人に対しての言葉も、決して感情的になっているわけではなく、「ちょっとイラっとする」という感じなのですね。希望を持てない人への「大丈夫だよ」という言葉は、鬱の人に「がんばれ」と言うのと同じぐらいの感じなのだと思います。「がんばれないから苦しいんだよ」「希望を持てないから苦しいんだよ」。言葉としては「いらだつ」という強い言葉だったのですが、そういう気持ちの発露だったのだと思います。
そして、ゆずなさんのように思っている人はほかにもいると思います。僕は、ゆずなさんがこういう思いだったということを正確に伝えたいと思いました。
――もともと冷静な人だったのでしょうか? それともこの病気と過ごしていくうちに身に付いた姿勢なのでしょうか?
初対面の時、僕は断るつもりで行ったので、話の中で「発信の仕方はたくさんあるじゃないですか。SNSとか、夫さんに撮っていただいてYouTubeとか」と言いました。その時に「他人の方がいい」とおっしゃったんです。そこが、僕がゆずなさんに興味を持ったところです。どうして他人の方がいいのかなと。いまだにはっきりとはわからないのですが、ゆずなさんの立場で考えると、他人とは「病気になった自分しか知らない人」ですよね。今の自分しか知らない人。そういう人の方が話しやすいこともあるのかなと。「病気する前はこうだったよね」という人に対しては素直になれないというか。
さらに、ストレスってどんな病気でもいけないことだと思うのですが、最初に舌がんと診断されて手術された2020年2月、3月って新型コロナウイルスの感染拡大が始まった時期になります。入院時、翔太さんが面会できるのも1日1回10分とかでした。そういうコロナ禍の中で、健康な人間でもいろんな制約があっておかしくなる中で手術をされて、転移が進んでいったわけですから、強い人だったと思います。
――私は、ゆずなさん自身、元の自分とどこか変わっているはずだと思います。元の自分は看護師として仕事に夢を持ち、こういう人生を歩みたいと思ってきた人。後輩たちに会って仕事の話になるとつらいと言っていましたよね。もうそっちには行けない自分を、態勢を立て直して生き抜こうとした人なので、変わらざるを得なかったと思います。
そこを「なぜ変わっちゃったの?」と聞かれたくない。「前はこうだったよね」と言われても、なぜ変わったのかは言えない。だから、今の自分をありのままに受け入れてくれる人たちが必要だったのでは。変わっていく過程も含めて、それらを全部わかっているのは夫の翔太さんだけだと思います。
一番近くで見てきていますからね。僕が知っているのは、ゆずなさんがこういう病状になってから2カ月ぐらいのお付き合いでありませんが、そういう中で「他人の方がいい」とおっしゃったので、僕はあえて血のつながった親やごきょうだいにはインタビューしませんでした。
――確かに映画に出てくるのは、義理のお姉さん、先輩看護師と友人、ナノの人たち。翔太さんは別としてみんな他人で、血はつながっていませんね。
作り手の僕としては、ゆずなさんという当事者がいるんだから、なるべく当事者の話を聞きたいという思いがありました。僕がこれまで撮ってきた映画には、しょうがいのある方や認知症の人が登場しますが、当事者の話はなかなか聞けません。それで、オーラルヒストリーというか、介護をしている人や家族の話、看護師さんの話などでその人物を作っちゃうことになります。今回も、ご家族に話を聞くと、そうなってしまうと思いました。
★監督がタイトルに込めた思い
――タイトル「ケアを紡いで」はどこから?
いま普通に使われている「ケア」はお年寄りに対する入浴介助的な意味合いが大きく、ちょっと広げても、しょうがいのある人の面倒を見てあげる的な一方通行のイメージがあります。でも多分、ケアは相互関係というか。一対一でも相互なんですが、それが複数になってそれぞれが絡み合うような社会。縦糸と横糸が紡いで、きれいな模様の社会に近づければなという思いでタイトルを付けました。
――ケアという言葉、日本語でいうと介助的なことになりますけれど、英語のcareは子育てなども含み「誰かのためにすること」全体がケアですよね。それをお互いにやり取りし合えば、監督がおっしゃった縦糸と横糸のつながりができますよね。受けるばかりでなく、誰かのためにしてあげることができる。
介護、看護も含めてケアだと思います。作中で使わせてもらったゆずなさんの言葉で「人の話を最後まで聞けるって、なかなかいませんよね」というのがあります。傍で耳をそばだてて話を聞くみたいなことを含めてのケアというか。特別なことを施すのではなくて、見つめてるとか、うなずきながら最後まで話を聞くとか。日常生活の中に普通にあることだと思うのですが、そういうことを含めて認め合うというか。まあ自分が人の話を最後まで聞けない人間なので、自分にも言い聞かせるために映画にも使いました。
――ゆずなさんも一人でいる時に発作が起きたら怖いから、見守りのある場所に行きたくて「地域で共に生きるナノ」に通いましたね。監督の縦糸と横糸の話は、前作「島にて」(2020)でお話を伺った時にもおっしゃってましたね。
はい。イメージはすごく似ていますね。あの時に思ったのは、映画の縦糸と見ていただいたお客さんの横糸で、それぞれでいろいろな模様を描いてくれて、見た人のそれぞれの映像体験になるというイメージだったのですが、今回は縦糸、横糸それぞれが、今話しているそれぞれのケア。この辺の縦糸はこんなケア、こっちはこんなケアでこんな模様。それぞれで違う模様になる。同じになる必要はなく。居心地がいい模様の社会になれば。
――やはりそれは相互作用というか、お互いの働き掛けがある世界のことですよね。
そうです。映画が一方的にワンウェイのものではないように、ケアもワンウェイの施しだけではないと思います。
――病状が悪化するにつれて、テロップか何かで訃報が知らされるのかな、怖いなと思って見ていたのですが、ありませんでしたね。それはなぜですか?
映画の中で生きていてほしいです。
――もし知らされたら、見ている人は「終わっちゃった」と感じますね。
ある意味、お客さんとしてはすっきりしますね。起承転結の結まであって、うつむきますけれども映画として完結するので、どこかで納得というか、チャンチャンということになる。でも僕は死ということでチャンチャンというのが嫌で、宙ぶらりんでいいのかなと。映画の中では亡くなっていない。亡くなった映画にはしたくなかった。
――おっしゃることはすごく良くわかります。亡くなったら、そこで一つ閉じてしまう。綴じ目を作ったら、あとはハサミで切って終わり。そうしたくはないのですよね。
ええ。それが紡ぐことだと思うんですね。映画を見た人も紡ぐメンバーになってほしい。ここで模様を終わりにしたくない。映画を見る体験をしたことを誰かに語る時、多分、自分の中で一回消化して、自身の経験や生活歴を踏まえて、伝えたいことや疑問に思ったことなどを話すでしょう。そんな斜めの糸が1本入ったらまた違う模様になると思うんです。邪魔だったら抜けばいいんですし。そうやって常に動いていけばいいと思います。
――ありがとうございました。(大田季子)
【上映情報】4月8日(土)から第七藝術劇場(阪急十三)※12:20の回終了後、大宮監督の舞台挨拶、14日(金)から京都シネマ(四条烏丸)、順次、元町映画館で公開。
「ケアを紡いで」公式ウェブサイト https://care-tsumuide.com/