世界遺産・下鴨神社の糺(ただす)の森から下鴨本通りを挟んですぐ西。「井村美術館」はちょっと変わった私設美術館だ。マンションのような4階建のビルで、通りから大きなガラスを通して見える1階ギャラリーの展示作品には一つずつ価格がついている。受付がないせいで入口がわかりづらく、とにかく入りにくい。たいていはパソコンの前で事務作業しているスタッフがこちらの姿をみつけて笑顔で扉を開き、迎えてくれる。あまりにも美術館らしくないので、もしかしたらこれは単なるエントランスで奥に違うスペースがあるのだろうか、と思うくらいだ。噂を聞いて遠方から来た人は想像していたのとは違うので戸惑い、かすかな失望さえ感じるかもしれない。
京都のレストランなどで「おもしろいアートスポットを知りませんか?」と尋ねると、かなり高い確率で「あそこに行ったらええ」と、ここを推される。どうして?
開館は1981年。母体となる京都美商は、19世紀前後に海外に輸出された十一~十四代柿右衛門、十一~十三代今右衛門、オールドバカラやガレ・ドームなどを現地で買い付けして国内の百貨店などに卸している。その買い付け過程でめぐり合った逸品を「日本から流出してしまった宝を日本に戻したい」と“里帰り”させることに情熱を傾けた館長の井村欣裕さんの父親が、手離せないコレクションを展示するために美術館を作った。作品の選択基準は独特だ。アートビジネスとして価値が上がるかどうかよりも、その作家が注文に応えて売るためではなく最も情熱を傾けて魂を入れ込んだ時期の作品である、という点を最重視している。らせん階段を下りた地下1階には肥前の磁器・柿右衛門窯と今右衛門窯の歴代の作品が約50点展示されている。
中でも井村さんが大切にしている一品がある。人生で初めてロンドンのオークションで競り落とした柿右衛門様式「沈香壺」だ。急病でロンドンのオークションに行けなくなった父親から大学生だった井村さんに「2日後に、ロンドンに行ってくれ」と、希望の作品に○を付けたカタログを渡された。前日の下見で父親の指示とは違うが自分が「これはいい」と思ったものを落とすことに。オークションの競り方もわからず、スピードが速い数字の言い合いについていけなかった。一体いくらで競っているかもわからないまま、手を上げ続けていた。ハンマーが叩かれ、会場から拍手がわきあがった。東洋から来た若者は名門オークション会場では場違いだったはずなのに、差別されることもなく大切にされ、そこでこの業界に携わりたいと思った。帰国して父はかなり高い値段で落札したことをとがめず、言葉少なに褒めた。購入した新潟のコレクターによって佐賀県九州陶磁文化館に預けてられていたこの「沈香壺」が、所有者の希望で2018年に40年ぶりに井村美術館に戻ってきた。「僕の中で、この作品は生き続け、あれほど感動した経験はない、と思いながら40年この世界に携わってきました。経験を重ねた今の自分が見ても、本当にすばらしいです。この世界に入ったきっかけになった作品が、僕に次世代に託せと語りかけました」という井村さんは今年11月に京都美商の社長の座を長男の亮介さんに譲った。
ここまでは一般の目に触れている範囲。先代と井村さんは何度もヨーロッパを訪れるうちに、歴史の中で埋もれていたオールドバカラにも魅了された。日本の美術品が「ジャポニズム」と呼ばれ、世界に多大な影響を与えた事実をもっと知って欲しい。教科書には載っていない、埋もれた美術品の歴史の研究にも時間を費やしてきた。日本で歴代の柿右衛門・今右衛門、オールドバカラの鑑定書を発行していることもあり国内外から見学に来るなど、コレクター垂涎ものの作品の数々は3階の25㎡ほどの狭いオーナーのコレクションルームに秘蔵されていて普段は見ることができない。今までは井村さんの友人や、知り合いからの紹介、美術館で話に興が乗った入場者などに見せてきた。そのアバウトな感じを亮介さんが12月1日から事前に予約すれば見ることができるシステムに変えた(解説付きで有料。解説者によって価格は異なる。井村館長の場合はオールドバカラなどを使用したお茶とお菓子付きで1人5,000円)。実はこの秘密のコレクションと情熱があふれ出る説明こそが、この美術館の隋骨頂なので、少し参加費が高いと思っても、その価値はありそうだ。
※井村美術館
〒606-0804京都市左京区下鴨松原29
TEL:075-722-3300 開館時間11時~17時、水曜日定休 入館料一般500円、学生300円
コレクションルームでのバカラ見学会については以下のホームページの井村美術館解説スケジュールを参照
https://kyotobisho-gallery.com/
◆Writing / 澤 有紗
著述家、文化コーディネーター、QOL文化総合研究所(京都市上京区)所長。
京都、文化、芸術、美容、旅や食などなどをテーマに雑誌・企業媒体誌などの編集・執筆を担当するほか、エッセイなどを寄稿。テレビ番組や出版のコーディネート、国内外の企業の京都、滋賀のアテンドも担当。万博の日本館にて「抗加齢と日本食」をテーマに食部門をプロデュースするなど、国内外での文化催事も手掛ける。コンテンツを軸に日本の職人の技や日本食などの日本文化を「経済価値に変える」「維持継承する」ことを目的に、コーディネート活動を行っている。
主催イベントとして、日本文化を考える「Feel ! 日本 -日本を感じよう-」と、自分を見つめ直しQOLを高める「Feel ! 自分-QOL Terakoya Movement ? 」を定期開催。
https://www.qol-777.com