実話に基づく中学教師たちの奮闘を描き、人と向き合う大切さを伝える映画「かば」8/13(金)公開

【ものがたり】1985年夏、新任の臨時教員・加藤先生(折目真穂)が大阪市西成区の中学校に赴任してきた。生徒たちの多くは出自や偏見、家庭事情などを背景に、過酷な環境を生きている。学校の内外で彼らと向き合う蒲先生(山中アラタ)をはじめ、先輩教員に日々学びながら奮闘する加藤先生。やんちゃな男子集団の信頼を得ていく一方で、一人の女生徒・裕子(さくら若菜)のSOSを見逃す。阪神タイガースが日本一に輝いた頃に……。

2010年に58歳で亡くなった大阪の中学教師、蒲益男(かば・ますお)とその同僚の先生たちが生徒と真剣に向き合った熱い日々を生き生きと伝える自主製作映画「かば」が、8月13日(金)から公開される。蒲先生の葬儀には、約300人もの教え子たちが列席したという。生前の本人とは全く面識がなかった川本貴弘監督が、なぜこの映画を手掛けることになったのか? プロデューサー・脚本・監督を7年半にわたって務めた経緯などを聞いた。

【川本貴弘監督インタビュー】

――どうしてこの映画を作ることになったのですか?

2014年に京都で僕の前作「傘の下」(2012)の上映会をした時、たまたま見に来てくれた人たちに終わってから声を掛けられた。彼らは蒲先生の後輩で、京都の高校教員たちでした。「こういう人がいるんだけど、映画にしてくれないか」と。

後々知ったのですが、蒲先生は岐阜県郡上市の出身で、京都の大学を卒業し、最初は京都の高校の臨時教員をしていた。その後、本採用で大阪市の教員になった。西成の中学校に赴任した時は30歳ぐらい。そこで6年ぐらい教えて、京橋の方の中学校に移ったそうです。

映画にしてくれないかと言われたけれど、最初はやる気なかった。蒲先生の話をされてもピンとこないし、知らないし。京都出身で、この映画に関わるまで西成にも行ったことがなかった。話した人も素人が夢を語っているノリだったから、そもそも映画を撮るのにどれだけお金がかかるかわかって言っているのか、と。

蒲先生(山中アラタ)は、駅で偶然出会った時に名前が思い出せなかったことを卒業生・由貴(近藤里奈)に謝りに行く。「先生も人間なので、教え子の名前を一瞬忘れることもある。蒲先生も名前を忘れていた教え子にホンマに謝りに行った。これは本当に聞いた話です。子どもを叱るんやったら、子どもにも謝らなあかん。同じ目線で、人と人として」と川本監督

ただ、先生の話が嫌いではなかった。「3年B組金八先生」や「スクールウォーズ」はよく見ていたし、僕は地元が(ラグビーで有名な)伏見工業高校の近くだったから、熱い先生の話は嫌いじゃない。で、まあまあちょっと、調べるぐらい調べてみようか、と。

蒲先生の大学時代の友人が「大阪市人権教育研究協議会というところに電話したら多分、蒲先生のことを知っている人が多いんちゃうかな」と教えてくれ、調べて電話した。そしたら「ああ、蒲益男さんな」とつながって、蒲先生が亡くなった2010年当時、同僚だった3人の先生方を紹介してくれた。その人たちは今、映画「かば」製作委員会のメンバーです。

3人に会いに行って何度も話をするうち、最初は蒲先生の話をしていても、だんだん自分たちがどんなふうに生徒と向き合ったかという話になっていった。僕はどちらかというとその話に熱を感じた。みんないい先生だなと。

つまり、蒲先生というよりも同僚の先生のリアルな話に食いついて、映画をやるやらへんは置いといても、もっと話を聞きたいと思った。モデルとなった学校は学区内が100%同和地区だから中学校にいる間は差別されない。卒業してから一気に部落差別の現実が子どもたちに襲い掛かる。だから先生たちは教科を教えるだけじゃなく、「もし、いわれのない差別に遭うことがあったら、その時にちゃんと生き抜けよ、立ち上がれよという教育をしたんだ」と、僕に一生懸命に話す。そんな熱い先生たちに共感したんです。

先生たちが「かばのことを描くんやったら西成やし、西成のことをもっとわかってくれ」というので、そこから西成の街のことを調べるようになった。びっくりするぐらい本を読まされました。西成の歴史とか十何冊をドンと渡されて。すべてを理解したわけじゃないけど、本も読みながら勉強して、ネットでも調べたりして、大体のことが頭に入ってくるまで2~3年かかった。

――それからパイロット版を作ったのですか?

映画製作は、話を持って来た人がお金を集めるのが暗黙のルールみたいになっているけれど、その頃、最初に話を持って来た人がいなくなってしまった。それで僕と先生たちが残った。今は自分が責任もってやっていますけれど、その時点では僕は頼まれた仕事という位置づけでしたから、お金どうするの?と。僕がやりたいと始めたわけじゃないから、なんで僕がお金を集めなあかんねん。映画を撮ってきた人間だから大体いくらぐらいかかるかわかる。しくじったら大借金になるのもわかっていたから、絶対いややと。でも皆がやりたいという。だったらお金出そうよ、集めようよと。

ある日、転校生・良太(辻 笙)が教室にやってきた。男子グループのリーダー格、繁(松山歩夢)たちの反応は……。「転校生のエピソードは蒲先生ではなく、周りの先生の実話です。子どもの問題を解決するのは先生ではなく、やはり友達。先生はきっかけを作るだけ。友達同士、最後は自分で解決しないと」と川本監督

一方で、取材はしていたけれども、僕は京都の人間でよそもん。西成出身でもないし、蒲先生の生徒でもないし、在日でもない。そんな僕が映画を撮ると言っても、なかなか街の人たちに受け入れられず、中には「お前、なんやねん」「いらんことするな」という人たちもいっぱいいました。それはいろんな人の考えがあってのこと。僕はこういう映画があってもいいと思ったから、作るんやったら街の人たちや部落解放同盟、いろいろな団体の人たちにも協力してもらわないとできない。みんなと一緒に気分よくやりたかったし。反対されてはできない。何回も何回も行って友達になってOKをもらっていきました。もちろん今も、全員がいいとは思っていないでしょうけれど。

その時点ですでに第1稿はできていたので、企画書なんて見ない一般の人でも、映像やったら見てくれるんやないかと考えて作ったのがパイロット版です。資金集めにも映画製作の理解を得るにも役に立つだろうと考えて、長い予告編みたいなものを、約10分のと、30分ぐらいのを作りました。パイロット版は今もYou Tubeで見れますが、蒲先生役の山中アラタは一緒ですが、他の出演者たちは本編とは変わっています。

映像だけやったら心許ないから、もう一つ何かないかと思いついたのが「じゃりんこチエ」のチエちゃんにナレーションをしてもろたら、大阪の人たちは喜ぶんじゃないかなと。それで中山千夏さんに頼んだらOKいただいて、本編に出演もしていただけた。そしたら西成の街の人たちも皆喜んで、僕を受け入れてくれるようになりました。言い方はちょっとあれだけど、作戦成功!ですね。

そこからすぐお金も集まるかなと思ったけれど、なかなか。映画1本撮るのに3千万円となると(最後は結局4千万円ぐらいかかったのですが)、100万円、200万円じゃないし、本編製作まで行くのに、そこから3年ぐらいかかりました。

その間何をしたかというと、大阪だけじゃダメだと、パイロット版をもって東京から九州、沖縄まで回ったのです。「こういう映画が必要だと思わないですか? 子どもたちのために」と賛同者を集めてカンパを募った。そこから徐々にプロジェクトの信用度が上がっていき、最終的には2万人を超える人たちに賛同いただきました。退職金から1千万円を超える額を出資してくれた先生もいます。

ポイントポイントで蒲先生の後輩の現役の先生たちの得難い協力もありました。スタッフロールには絶対に名前は出さないでと言われましたが。個人の思いが結集してできた映画なんです。

――たくさんの人たちの思いをつなぐために、長い時間がかかったのですね。

そう。「かば」って7年半もやっているから、第1期から第4期まであります。第1期は僕と先生たちのリサーチの期間、第2期はパイロット版製作と資金集め、第3期は本編製作、第4期は製作が終わってからのプロモーション。そこからかかわってきた人たちもいるんです。

いろんな人たちに映画製作の意義を訴えて巻き込んでいった理由の一つは、恐らく宣伝費が尽きるやろうから最初に宣伝しとこ、という思いもありました。その辺はプロデューサーとしても頭を使ったし、行動にも出たし、お金も集めた。

ノックで特訓しながら加藤先生(折目真穂)は子どもたちに「立て、立ち上がって強くなれ」と檄を飛ばす。「最初はこの加藤先生の言葉が映画のキャッチコピーだったんですが、途中で変えました。別に立ち上がらんでもええやんかと思っている人もいるかなと。決めつけたらあかん。向き合うと言ったって、人それぞれ向き合い方も違う。それでいいんです」と川本監督

――やめようと思ったことはなかったのですか?

途中で2回ぐらいやめたろと思ったけれど、やめなかった理由の一つは、カンパを集めてしまったから。誰からいただいたかもわからないお金もあるし、詐欺やと言われたら大変やし。カンパ集めは自分で考えてやろうと思ったことやから、これはやめられへんなと。

二つ目は、やっぱり子どもたちのため。というとちょっと大げさやけど、この映画は子どもたちの未来に向けてのメッセージでもあるし、誰かが何とかしてこれを伝えなあかんのと違うかなと。子どもたちのためにも、大人が諦めるというのはよくないなと。7年半で公開することができたけど、これがもし10年、15年かかったとしても、僕は多分諦めることはなかったと思う。

もし僕が冷めた人間だったら無理やったと思う。頭で考えるよりも先にハートでいったから。戦略は考えるけれど、基本、頭で考えるより先に行動するタイプなので。カンパ集めてもうた、どうしよう?って。同僚の先生たちと最後までもめなかったのは、その辺が僕と似ていたからかもしれません。

――映画で伝えたい子どもたちの未来へ向けてのメッセージとは?

川本貴弘監督と裕子役のさくら若菜さん。実際に中3の時に裕子を演じたさくらさんは「台本をもらって、この映画と一緒にこれからやっていけるかと何回も聞かれたけれど、やりたいと思いました。1985年の昔の話というのは、台本を読んでもわからないことが多い。だから自分でいろいろ調べて、監督が読んだ西成の本も全部読みました」。川本貴弘監督は「僕が読んでも難しかったから、子どもには難しかったやろと思うけど。2時間15分という長い映画が間延びしていないのは、子どもたちの演技が良かったから」と褒めた=7月21日、大阪市内で

「かば」というこの映画は蒲先生の物語ではなくて、一人の経験の少ない人間が、自分よりも経験の少ない子どもたちに教えられて成長していく話。大人も子どもを見て成長するんです。僕自身、子どももいないのに、こんなこと言うて面映ゆいけど。

結局、情熱ですよね。計算じゃない。時間経過でいうと9月から11月半ばまでのたった2カ月の話です。その中でもいろんな大変なことがあり、短い期間の中で加藤先生は気持ちが変わって、ちょっと成長し、この子たちの現実がわかった。

僕は単純に「大人たちは子どもたちとしっかり向き合わなかったらダメだろう?」と言いたかっただけなんです。話の舞台がたまたま西成で、向き合う大人たちがたまたま先生たちだっただけで。別に教育とは?とかを説いているわけではありません。

ほとんど先生たちから聞いた話で作ったけれど、1シーンだけ自分で作ったシーンがあります。それはバスのシーン。先生だから、その肩書で子どもたちと向き合うのではなくて、街の大人たち皆で子どもに向きあわなあかんでというメッセージを込めました。先生だけでも親だけでもあかん。周りの大人たち皆が子どもたちに向き合わないとあかんのです。

蒲先生が最後に「何年やってもわからへんことがある」と言いますが、わからへん時にもちゃんと向き合っていれば、子どもたちはちょっとした希望を感じることができる。そんなふうに思っているのです。

【公開情報】8月13日(金)からアップリンク京都、14日(土)から第七藝術劇場で公開。【イベントのお知らせ】★第七藝術劇場=①15日(日)13:25の回上映後、舞台挨拶とトークショー。出席者は川本貴弘監督、山中アラタさん、さくら若菜さん、蒲先生の同僚教師2人②22日(日)16:40の回上映後、川本貴弘監督、寺脇研さん(映画評論家)、趙博さん(転校生の伯父役で出演)によるトークショー。★アップリンク京都=15日(日)16:40の回上映後、舞台挨拶。出席者は川本貴弘監督、山中アラタさん、松山歩夢さん、辻笙さん

 

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