7/7から関西で公開されるドキュメンタリー映画「絶唱浪曲ストーリー」が魂を揺さぶる理由

川上アチカ監督は1978年、横浜生まれ。「絶唱浪曲ストーリー」は初の長編ドキュメンタリー映画だ。文中で言及した「出会ってしまった主題」は浪曲のほかに、「『舞踏』の創始者・大野一雄先生(1906-2010)の2004年からの最晩年6年間を撮影させてもらいました。こちらはまだ人に見せられる形で完成はしていません」。楽しみだ=2023年6月15日、大阪市内で

なんて、あっぱれなドキュメンタリー映画! この至芸、よくぞ残してくださった。登場する芸人たちの、互いを気遣う優しさと筋を通した生き様に魂が揺さぶられる……。7/7(金)から京都シネマで、翌8(土)から第七藝術劇場で、順次元町映画館でも公開される「絶唱浪曲ストーリー」は、僥倖(ぎょうこう)ともいえる不思議な偶然が重なって川上アチカ監督が世に出すことができた映画だ。どんな偶然が重なったのか? キャンペーンで来阪した川上監督のインタビューは、赤裸々な言葉に満ちていた。

1 「旅の風雪に耐え抜いた」浪曲師・港家小柳師匠との出会い

フランスの映像作家ヴィンセント・ムーンから「日本で魂を震わせる音を探して」と依頼されました。彼は宗教的儀式や小さな村で民謡を歌うお年寄りなど、音のルーツを世界中で探して映像化している人。いろいろ探していた時、ミュージシャンの友川カズキさんのライブでファンの方から「港家小柳(こりゅう)師匠という浪曲師さんは見たほうがいい」と丸印を付けたチラシをいただきました。それで、日本浪曲協会(台東区雷門)の木造モルタル1階の定席を訪ねました。畳敷きの部屋に年配客がわずかに20人ぐらい。そこで初めて浪曲を見ました。2014年のことです。

港家小柳

小柳師匠が舞台に現れた時、それまでの浪曲師さんとは全く違う雰囲気を持った方が現れたと感じました。玉川奈々福師匠は「旅の風雪に耐え抜いた浪曲だから」とおっしゃるんですが、小柳師匠は40年ぐらい旅芸人をされていた。若い時からずっとストリートを歩いてきた方の凄みみたいなものが彼女の背景に見えたのかもしれません。

浪曲は三味線と2人で作っていく世界です。浪曲師が泣いている時は三味線も泣いている。本当に2人で1人、という状態で作っていく芸です。その日の小柳師匠の三味線は大名人の沢村豊子師匠。2人で作っていく丁々発止の物語の世界が素晴らしかった。自分が本当にその時代に入ってしまったように物語が展開していくんです。

浪曲には序破急の流れがあり、最後の急のバラシという畳みかける部分があるんですけれど、そこも本当にものすごい話芸でした。すごいグルーブに観客を巻き込んでいく。場を支配していくエネルギーがものすごくて、一発でノックアウトされました。

私がかかった魔法が本物だったのかどうか確かめたくて、予定にはなかったんですけれど、翌々日も見に行きました。それで確信を得たので「ヴィンセント・ムーンという作家に撮らせてほしい」とお願いしました。

 

三味線の沢村豊子師匠と抱き合って喜ぶ小柳師匠

2 小柳師匠芸歴69周年の会を撮る人がいない!

しかしヴィンセントが来日して撮ろうとした時には、たまたま小柳師匠が入院して撮れなかった。ヴィンセントが日本を出た時に小柳師匠が復帰して、お祝いを兼ねて芸歴69周年の会をやることになったけれど、誰もそれを撮ろうという人が現れなかったんです。

40年旅芸人をしていたですから、ほとんど記録映像も残っていない。年齢的にも80代後半でしたから、撮れるチャンスのほとんどない芸能なのに、誰も撮ろうとしない。誰もいないんだったら自分がやるしかないと手を挙げたのが最初でした。

 

3 逃げられない主題に出会ってしまった

実はそのころの私はドキュメンタリーを作ることから逃げていたんです。

私の最初の映画は、21、2歳のころに作った「Pilgrimage」という短編でした。巡礼の旅という意味で、日系アメリカ人のおじいさんと一緒に強制収容所だった場所を訪ねる旅に参加して、彼の思い出せない過去について語ってもらおうと試みるというドキュメンタリーでした。

強制収容の体験を話していただこうと私が聞くたびにその方が傷つく。生身の人間の人生を扱うってものすごく業が深いっていうことが体感としてわかってしまい、その体験があまりにも強烈過ぎて髪の毛がほぼ全部抜けちゃったんです。

小そめの名披露目興行は2019年6月8日だった

こんなものを作っていたら死んじゃうと思ったので、これが最初で最後の作品と思って出した作品が「キリンアートアワード2001」準優秀賞をいただいたのですが、クタクタでしんどくて、ずっとドキュメンタリーを作ることから逃げていました。

だから、人に頼まれたお仕事、映画のメイキングとか、自分からスタートしたものではないプロジェクトばかりやっていたんです。生身の人間の生活を撮らせてもらうってすごく業の深い仕事なので、よっぽどのことがないと撮らないと思っていました。だけど、どうしてもそれを作らないと前に進めないという主題との出会いが人生の中で起きてきて、その一つが小柳師匠だったんです。

結局、小柳師匠の弟子の小そめさんの名披露目まで撮ることになりました。5年撮影した200時間余りの映像を、3年かけて編集。完成まで8年かかりました。

 

4 もらった命を「そこにある物語」に捧げる

実は、この作品を作る前に私はもう一度死ぬような思いをして、寝たきりになりました。ポルトガルで虫に刺されて、炎症が起きたまま帰国。当時の自分は、自然療法しか信じていなくて、ステロイドとかで絶対治したくないと思っていました。そしたらどんどん炎症がひどくなって、自家感作性皮膚炎を起こしてしまった。頭のてっぺんから足の先まで何千カ所も刺されているみたいな状態になって、ものすごくかゆい。友人に紹介された代替療法を行っている医療機関で抗生物質を点滴されて、患部から滲出液が止まらなくなってしまって。全身を包帯でぐるぐる巻きにしても3時間後にはビショビショ。あとで転院先の先生に聞いたら「その液体は血液と同じ成分だよ」と言われて。だから体中から血液を流しながら3カ月間寝たきりになっていたんです。

港家小そめが稽古に通う玉川祐子師匠の赤羽の住まいは2DKの団地だ

それはすごく恐ろしい体験で、死んじゃうんじゃないかと震えました。今となってはその体験はすごいギフトだったと思えるんですけれど、その時に気づきがありました。

ちゃんと天井のある部屋で布団を着て、肌に優しいパジャマを着て眠れている自分はものすごく恵まれている。もし砂漠にいたら死んでいたなと。

それまでは「あそこに行きたい」「あれが欲しい」とか欲しい欲しいとばかり思っていた自分だったけど、自分はすでに全部持っている。人間関係や人からの思いやり、すべてが宝物のように感じて。「すごく恵まれている、ありがとうございます!」ってなったんです。その後転院した先の治療が効いてどんどん良くなりました。元気になって歩けるようになったら、命の輝きとかも見えるんですよ。

名披露目興行の舞台に立つ港家小そめ

この体験は絶対忘れたくないなと思って、名前を変えました。アチカはモロッコでもらった名前で、ATIQAと書きます。古い宝物という意味と、慣習に捕らわれないという意味が両方入っている名前で、温故知新でいいなと。

そんなことがあったので映画の作り方も変わりました。もう1回もらった命だから「捧げればいい」と思うようになったんです。覚悟が決まったというか。自分は媒体に過ぎない。自分が物語を作っているのではなくて、物語はもうそこにある。自分を通して出ていけばいい。物語が私に訴えかけているものに素直に反応して、それを出していければいい。間違いのないようにということをいつも思っています。

 

5 精進する芸の道に、師匠がたの輝きを求めて

2019年6月に浅草の木馬亭で名披露目興行をした港家小そめさんが、小柳師匠に弟子入りしたのは13年9月、44歳の時でした。それ以前、彼女はちんどん屋の瀧廼家五朗八親方に弟子入りして「ちんどん月島宣伝社」を旗揚げしています。

晴海ふ頭でチンドン太鼓の稽古をする小そめ

五朗八親方が「ポン!」と太鼓を叩いただけで山が見えていたそうです。だけど、ハサミも使えない方だったそうで。それでも、太鼓を叩かせたら超一流。親方は「ちんどんなんてやりたくてやっているわけじゃないんだ、だけど、これしかできないからやっているんだ」と小そめさんに言っていたそうです。

短大を卒業した小そめさんは若いころ、演劇のサークルに入ったこともあったらしいんですが、そこでは皆が自己表現を目指していた。一方で、「やりたくてやっているんじゃない」親方が太鼓を叩いたら山が見えちゃう。「芸ってこういうことなんじゃないの」と思われたそうで。恐らく小そめさんの中で何かが腑に落ちたんだと思います。

小柳師匠が倒れた時、ほかの方へ弟子入りしてはという声掛けもあったけれど「それは師匠に義理が立たないです」と断ってきた小そめさん。ほかの方に習うということは、まず小柳師匠にそれを伝えなければなりません。きっとがっかりされますよね。そのさみしさもわかっていらしたのかもしれません。師匠が引退された後は、月島から赤羽まで電車で1時間ぐらいかけて三味線の玉川祐子師匠のもとに通っています。名古屋から上京した時に小柳師匠がいつも居候していた御年100歳の曲師の住まいです。

祐子師匠は小そめに「きれいな声だけではダメだ。汚い声も出せるようにならないと」と稽古をつける

小そめさんとしては、祐子師匠に教えを受けたいという気持ちももちろんあったでしょう。それ以上に、祐子師匠が「自分が引き受けるよ」と言った時の、ものすごくやる気になっている姿をそばで見ていたことが大きいのだと思います。

私の問いかけに小そめさんは「僭越ですけれど、自分の存在が弟子としてあることで、もう引退しようかと思っていた師匠がたがもう一回やる気になる。私は祐子師匠を輝かせたいんです」と言われました。

こんなに大事なものをいっぱい持っている人なのに、あまりにも評価が低い。100歳ですから耳も遠くなってくる。技術的にも全盛期からは落ちてくる。だけど、浪曲の生き字引みたいに、2代目広沢虎造(1899-1964)を直に知っている人、その時代から浪曲をやってきた人で、ものすごく面白い話や、もうなくなってしまった寄席の話などもされる。三味線の指は以前ほど動かなくなっても、掛け声のタイミングや掛け声は一流。それだけでも得られるものは多いし、小そめさんはそういうところに価値を見出していて、どうしたら祐子師匠がもっと評価されるのかということを考えられていたのだと思いますね。

 

【取材を終えて】

「絶唱浪曲ストーリー」というタイトルについて尋ねた時、川上アチカ監督は思いがけない言葉を言った。

「絶唱って『素晴らしい歌』とか『感情をこめて夢中になって歌うこと』というのが本来の意味ですが、私がこの言葉に出会ったのは、アートディレクターの石岡瑛子さんがプロデュースした、ヒットラーの下でベルリンオリンピックの映像を撮ったドイツの映像作家レニ・リーフェンシュタール(1902-2003)の本(石岡瑛子編 写真集『Leni Riefenstahl life レニ・リーフェンシュタール ライフ』求龍堂、1992年)の中でだったと思います」

玉川奈々福(左)と沢村豊子

昭和30年代生まれの筆者には「絶唱」と言えば、舟木一夫。悲しい結末の恋がまず思い浮かぶ。20歳年下の川上監督とは言葉に張り付いた意味が違うのだ。

そして「絶唱という言葉の『絶』の字は絶滅の絶でもある。今はもう若手も入ってきましたけれども、一時は浪曲はなくなっちゃうんじゃないかというぐらい下火になっていた。最後の浪曲の叫び、黄金時代を知っている人たちの最後の叫びみたいな意味で、絶唱という言葉も使えるような気がして、ダブルミーニングになるんじゃないかと思って付けました」と。

映画の中で玉川奈々福師匠が「最盛期には東西併せて3千人の浪曲師がいた。昭和22(1947)年には芸能人の長者番付トップ10のうち7人が浪曲師だった」と語っているが、私たちの琴線に触れる輝きがある浪曲の世界を知らずにいることは、とてももったいないことのように思った。(大田季子)

「絶唱浪曲ストーリー」公式サイト https://rokyoku-movie.jp/

©Passo Passo + Atiqa Kawakami

 

 




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