日本映画界のレジェンドの一人、若松孝二監督(1936-2012)のもとに集まり、ともに映画を撮ることに命を燃やした若者たちを描いた「止められるか、俺たちを」(2018年、白石和彌監督)に続く「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」(119分)が3月15日(金)から全国で順次公開される。監督は前作では脚本を担当した井上淳一。1980年代、若松監督が名古屋に作ったミニシアター「シネマスコーレ(ラテン語で映画の学校)」と、若松に師事した井上監督本人の体験をもとに、映画と映画館に吸い寄せられた若者たちを描く青春群像だ。1月下旬、プロモートで来阪した井上淳一監督と出演した杉田雷麟(らいる)、芋生悠にインタビューした。
若松監督が作った名古屋「シネマスコーレ」が舞台
「2を作る予定なんて全くなかった」という映画を、なぜ井上監督は作ることになったのか? 「一昨年の39周年に合わせて、シネマスコーレのドキュメンタリーができた時に、これを題材に映画ができるかも、と脚本を書いてみたんです。『映画は人に見てもらって初めて完成する』と言っている映画監督が、世界で初めて地方都市に映画館を作る話と、映画をあきらめて戻ってきた元映画青年が監督に翻弄されながら映画館をつくる話です。タイトルは『止められるか、キマタを』(笑)。キマタはもちろん、シネマスコーレ支配人の木全純治さんのこと。100%冗談のつもりでしたが、みんなが面白いと言い出して、その気になってしまった」と井上監督。
しかし、その脚本を映画にするには足りないピースがあった。「映画には対立と葛藤が必要ですが、木全さんは誰かともめることが全くない人です。話が足りなくて、苦肉の策で自分を登場させました。僕の話は、若松監督に青春をジャックされて、本当なら止まってもおかしくなかった子が、ここまで来ちゃったという話です。さすがにこの年になると、自分の力だけでここまできたと勘違いはしません。今回の映画も皆さんの力です。夢も理想も基本的には経済に負けますが、僕は両親が一人息子に対して非常に甘々で、恥ずかしながら経済的援助も物的援助も惜しまなかったから、ここまで来ちゃった。だから、すごい才能を持ちながら、途中で止めざるを得なかった人たちに対してはやましさもあるんです」
恍惚と不安が胸の内に同居する若者像を杉田が好演
若き日の井上監督、井上少年を演じるのは杉田雷麟だ。
杉田は「最初は緊張しましたね。監督の前で本人の役をやるという体験をすることは一生ないだろうなと思って。やってみると、監督は的確なところだけを言って、後は結構任せてくれました。僕が出演した前作『福田村事件』(森達也監督、井上は共同脚本を担当)の時から一緒にいて信頼していたので、緊張はしましたが心配はありませんでした」と振り返る。
井上が杉田を自身の役に決めたのは、その「福田村事件」のオーディションの時だったという。「書類で1000人近くの応募があり、1次審査で450人くらいと会いました。選考は、こちらの不徳の致すところでもありますが、本当にわからないです。求める芝居の線があるとして、できない人はわかるけれど、一定ライン以上にある人たちの中からどうやって選ぶのか。そんな時に、オーディションの最後のほうに雷麟くんが来た。全然違う生き物が来たと思いました。芝居も届くし、たたずまいも全然違う。『ラッキー! 井上少年が来た』と。オーディションってこういう光るものを見つけるためにあるんだと思いました」(杉田、横で照れる)。
「その時に思ったことをあえて言葉にすると、太宰治が『選ばれてあることの恍惚と不安、二つ我にあり』と言ったように、恍惚と不安が彼の中に同居している気がしたんです」と井上監督は言う。何者かになりたいけれど、なりきれない。迷える青春真っただ中の自意識過剰な思い。身に覚えがあって、共感する人が多いのではないだろうか。「今だから言えるけど、あの頃は僕も、自分は他人とは絶対に違うと思っていました。何の確証もなく。強烈に不安になることも、強烈なコンプレックスにさいなまれることもあった。それが彼のたたずまいから感じられたんです」
実話にはない在日コリアン女性を登場させた意味
若松監督が帰京する新幹線に入場券で乗ってしまったり、井上少年が予備校のプロモーション映画を初めて監督したり……ほぼ80%は実話という話の展開の中に今回、一つだけフィクションを盛り込んだ。芋生悠が演じる大学の映画サークルに所属する在日コリアンの金本法子(キム・ポッチャ)の存在だ。
井上監督は言う。「僕はつい最近まで自分が男であることで高い下駄を履いていることを知らなかった。2018年の1を作る時、白石(和彌)が『めぐみさんという人がいる。その女性の視点で作ればいい』と言った時も無自覚だったと思う。5、6年前のことだけど、あの頃はそこまで女性の生き方を問題にしてはこなかった。実際にシネマスコーレは、1982年のオープン後10年ぐらいはアルバイトも男しかいなかったが、そこを芋生さんの存在でやりたかった。そう考えると、この映画はいろんな意味で“2”になっているという気がします」
ただ一人実在しない人物を演じた芋生は、どんなふうに役作りしたのだろう?「金本は自分でも言っているけれど、三重苦で葛藤している。自分には何もない、才能がない、空っぽだ。生きづらさはあるのだけど、それを表現に生かせない。その才能のなさに絶望している。そこを自分ではどうしようもなくて、人にばかりぶつけている。すごく人間味があって、私は共感しながら演じていました。
金本にとって、井上少年と木全さんと会ったことはすごく大きな出会いだったと思います。井上少年は、金本の中では目障りな存在。何の苦労もしないで、うらやましいし、輝いて見えて、なんでこの人こんなに運がいいんだろうと……」
「本当にそうやって思われていたんだろうな、ずっと」と井上監督は横でつぶやいた。
芋生は続ける。「だけど同時に、井上少年がいなかったら金本の夢が終わってしまうぐらい、必要な存在でもある。井上が初めて監督をやるシーン木全さんと見学に行く撮影の時に、金本は笑って見ているけど、内心ちょっと悔しかったり、もっと頑張れよと、自分を投影している部分も半分あったのかなと思う」
井上監督は金本の存在が映画に入ったことで、映画に膨らみが出たと感じているという。「さっき言った男社会のこともあるし、井上本人も実は『自分は何もない』と思っている。当時本当に恥ずかしながら、在日でも部落でもゲイでもないと嘆いていましたからね。表現をめぐる葛藤ってずっとあって、例えば1990年代に日本映画が本当につまらなくなった時に『日本は平和だからいい作品が生まれない』と誰かが言うと『じゃあ、(紛争下にある)セルビアでは一番傑作が作られるはずじゃないか』と別の誰かが言う。映画に対する僕の思いは、この映画の中にたくさん描かれているけれど、金本が『在日だけど何もない』と言った時に、書ける・書けない、表現したい・できない、そういった相反する思いが、彼女の存在によって明らかに重層化される。男は相対化されて、さらに内面は重層化される。この映画が、才能がないけどラッキーな人間が一本線で生きていくだけの映画じゃないのは明らかに芋生さんの存在のおかげだと思っています」
本人を彷彿させる東出昌大と井浦新の演技力
木全支配人を演じたのは東出昌大だ。少し猫背の支配人本人を知る人は、その姿がそっくりとひざを打つ。そして、若松監督役は前作に続いて井浦新。井上監督は「新さんの熱量が、芝居も、現場のあり方も引っ張ってくれました。前作では10歳ぐらい若い若松監督を演じていたけれど、今回は実年齢で演じているから本当に若松さんそのものでした。新さんも東出さんも杉田くんも、これだけ大芝居をして“かくし芸大会”に見えないのは、この人たちの技量、力なんですよ」と強調する。
その一方で「みんなが大ものまね大会で大きい芝居をしている中で、芋生さんはふとした瞬間の小さな動きや目の中の表情で金本の内面、感情の起伏をあんなに繊細に演じてくれた。実はこの映画は彼女が要。金本だけが成長して、後の人たちは本当に小さな変化しかしていない。芋生さんはこの映画を本当に背負ってくれたと思います」と、芋生の演技を称えた。
全編を通じて昭和のにおいがする懐かしい場面は出てくるけれど、そこにはノスタルジーがあるのではない。井上監督は「作家の重松清さんが『懐かしい映画だけど、懐かしむ映画ではない』とコメントをくださったけれど、僕も軸足は今に置いていました。失われたものは確実にあるし、今はミニシアターがコロナと配信で本当に存続が難しい状況になっています。レンタルビデオが普及して名画座がなくなっていった時代を描くことで、具体的な生き残り策は何も描けていないけれど、何かがフィードバックされればいいなと思います」と結んだ。
【上映情報】3/15(金)からシネ・リーブル梅田,シネ・リーブル神戸、京都シネマで公開。16(土)からは第七藝術劇場でも。
「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」公式サイト http://www.wakamatsukoji.org/seishunjack/
©️若松プロ