90歳になった今もエネルギッシュに創作に挑み続ける唯一無二の世界的芸術家・草間彌生のドキュメンタリー映画「草間彌生∞INFINITY」(2018年制作/アメリカ/77分/カラー)が、11月22日(金)から全国でロードショー公開される。日本ではあまり知られてこなかった渡米時代(1957~73年)のニューヨークでの前衛的なアート活動を、アーカイブからの貴重な写真や映像を多数盛り込んで紹介いる点でも必見の映画だ。
日本公開を前に来日したヘザー・レンズ監督に、通訳を介して話を聞いた。
――初めて草間作品を見たのはいつか?
美大生だった1990年代の初め、彫刻のクラスで草間作品ソフト・スカルプチャーを見て衝撃を受けた。数十年前に作られた作品であるにも関わらず、非常にコンテンポラリーで興味深かった。当時学んだ何百ページにも及ぶ分厚い美術史の教科書は、ほとんどが男性芸術家の記述に費やされ、女性画家はわずか5人程度、もちろん草間彌生の記述もなかった。その後、彼女の作品カタログを入手して読み、草間さんがアメリカの美術界に残した功績が正しく理解されておらず、評価もされていないとわかった。それが映画製作に向かう一番のきっかけになった。
――映画製作はいつから始めたのか?
2001年ごろからリサーチを始め、04年から撮影に入った。当初は俳優を使って劇映画を撮るつもりだったが、卒業したばかりの学生が大変予算のかかる伝記映画を作る可能性はほぼないと諦めた。ドキュメンタリーなら幸いにも草間さんがご存命でもあることだし、ご自身の言葉で語っていただけるのではないかと考えた。もちろんドキュメンタリー映画を作ることがこんなに大変だとは全く知らなかったからだ。海外出張しなければならなかったし、言葉の壁もあった。ライセンス関係の難しい手続きもあった。
――撮影開始時には映画を作ることを草間さんに伝えていたのか?
当時はまだ学生だった私が、あまりにも世間知らずだったことは認めざるを得ない。リサーチでクリエイターたちと話す中で、草間さんのアトリエの電話番号を入手し、日本語を話す友人に「映画を作ります」と電話で伝えてもらった。正式な許可を取ったわけではなく、ただ伝えただけだった。喜んでもらえると単純に期待していたが、返ってきたのは実務的な反応だった。本人からかスタッフの一員からかは定かではないが「テレビ局はどこが入っているのか?」「上映館は?」など聞かれ、補助金を得て作るドキュメンタリー映画で、時間も大変かかると説明して電話を切った。
資金繰りも大変だった。映画を構想し始めた当時としてはテーマが時代を先取りしていたので、スポンサーに売り込もうとしても「(アメリカにとって)外国人の女性を題材にするのはどうか」という否定的な捕らえ方をされ実現しなかった。補助金申請もしていたが、プロデューサーのカレン・ジョンソンとカードローンをして何とか資金繰りをしていた。
最初の電話から4年後、オーロラ日本語奨学金基金から奨学金を得て、ドリーム・プロジェクトで日本に行けることになった。草間さんの正式な許可を得ていなかったことにオーロラ基金の阿岸明子さんも大変びっくりされ、彼女の紹介でやっと草間彌生さん本人にお会いできることになった。
――それが最初のインタビューだったのか?
そう、2007年2月だった。いろいろな人から草間さんの存在感がいかにすごいかを聞いていたが、実際にお会いした時、私もそれを感じた。彼女のアトリエに行き、エレベーターのドアが開くと赤いウィッグとトレードマークの水玉の衣装を着た草間さんが出ていらっしゃって、西洋式の握手をして英語で挨拶してくださった(なので、日本語での初対面の挨拶やお辞儀を練習していったけれど披露できなかった)。その時に権利関係の書類などにもサインをもらい、インタビューだけでなく目の前で作品制作をしてくださったのが大変貴重だった。日本では板谷秀彰さんが撮影した。
同じ年に日本に1カ月滞在し、松本市、直島などを訪れつつ、草間さんにも何度かインタビューした。草間さんが所持しているカレンダー、手紙、レシートなどの宝の山をスキャンさせていただき、ドキュメンタリー監督冥利に尽きる体験をした。ニューヨークやロンドンでも草間さんを撮影する機会があった。草間さん自身にお会いして撮影するのは、本当に貴重でうれしい時間で、いつももっと時間があればと思った。
――映画に登場して草間さんについて語る人たちはどのように選んだのか?
この映画のために非常にたくさんの人たちに会ってインタビューしたが、映画に登場させるコメンテーターたちは、草間さんと個人的な人間関係を持っていた人たちを中心にした。例えばベアトリス・ペリーさん(元画商)は草間さんの友人。アレクサンドラ・モンローさん(グッゲンハイム美術館アジア美術上級学芸員)もビジネスの関係だけでなく、個人として関係を築いた人だった。
――完成までの14年間に草間さんの評価が高まってきたことは、映画に影響したか?
彼女が生きている間にそういう評価を受けることができたのは素晴らしいことだ。映画の中間点となっているのが1960年代のベニスのビエンナーレだ。草間さんは招待されていないのにゲリラ的に参加してミラーボールのパフォーマンスをやった。当初の構成案ではそれに呼応する形で、エンディングを1990年代のベニスのビエンナーレにして、日本人の女性アーティストとして初めて招かれた名誉で締めくくろうと考えていた。ところがその後、彼女のアーティストとしての功績が予想を超える形で高まっていったので、芸術的な面だけに絞らず、より普遍的なエンディングにしたいと考え、彼女の故郷・松本市に焦点を置くことにした。彼女はアイデアが斬新すぎて、日本では女性画家としてなかなか受け入れられず、単身渡米した後も誤解を受け、様々な困難に直面した。日本に戻ることができて、世界からの評価も変わって、やっと彼女は正しく評価されたと思っている
――彼女の評価が変わったのは、社会の何が変わったからだと思うか?
いろいろな要素があると思う。一つ確実なのはSNSの影響だ。彼女のインスタレーションなどの作品はビジュアル的にインパクトがあり、それを背景に自撮りするとインパクトのある写真になる(残念なのは、作品を見に来ているのに写真を撮ることに夢中になる人たちが多いことだが)。もう一つの要素は、女性アーティストたちが男性中心主義的な芸術の世界を変えていこうと変革の動きをしてきたこと。女性の芸術家たちは美術館などで男性芸術家に比べて不公平な扱いをされてきたことを変えようとしている。
――共同脚本の出野圭太(いでの・けいた)さんの役割は?
ほぼ編集も出来上がり、草間さんの日本語インタビューをアメリカ人エディターが英語に訳したが、そこに問題があった。日本語と英語の文法の違いが考慮されず、文章として成立しない無茶苦茶な翻訳だったからだ。幸いにも日本語と英語に堪能で、ハリウッドでの実績もある出野さんが参加してくれることになり、翻訳を一から作り直してくれた。宝塚市出身の出野さんは「プリティ・ウーマン」などで知られるゲイリー・マーシャル監督(故人)と一緒に仕事をしたこともある人で、隠れたニュアンスなども丁寧に拾ってくださった。出野さんがチームに加わってすぐに2018年のサンダンス映画祭に参加することが決まった。そこからの3カ月間は徹夜も含め、感謝祭、クリスマス、新年などの休暇もすべてすっ飛ばして働くことになったが、その時も彼は本当に一生懸命働いてくれた。信頼できる人がチームにいてくれ、大変心強かった。
――草間さんは映画を見て何と言ったか?
草間さんがこの映画をご覧になったのはサンダンス映画祭に上映される少し前だ。公開作品はそこから少し変わっているが、草間さんからは「もっと最近の作品を入れてほしい」というコメントがあった。しかし映画は、美術館のカタログのように単純に作品を差し替えれば済むというものではないので、全体の流れを考慮しつつすべてを入れることはできなかった。映画を作り終わった後に、ロンドンで初めて展示されたインスタレーションがあり、私としても「これは入れたかった」と思ったが断念した。草間さんの希望する最近の作品はエンドロールに入れ、ベストは尽くしたと思う。
現在90歳の草間さんの人生には興味深いことが非常に多く、クレジット込みで77分の映画に収めるのは本当に難しかった。1年あたり1分も使えず、私が好きな作品も入れることができなかった。「今どきの観客の集中力は長時間続かない」というアカデミー賞作品を編集した人からのアドバイスで、観客の興味をそらさず、流れを止めないように留意した。全体の流れを大切にしつつ、映画を見た人が草間さんのことを「もっと知りたい」と思うような作品にしたかった。
――監督お気に入りのシーンはあるか?
彼女が踊りながら笑っている映像だ。すごくまじめな方なので、笑っているシーンは珍しい。若い頃の草間さんの肉声が聞ける映像も貴重だ。写真家に撮ってもらった写真など見つけるのは非常に苦労したが、見つかった時は苦労が報われたと思った。
――タイトルのINFINITYに込めた意味は?
アメリカで草間彌生のインスタレーションというと、インフィニティ・ルームが有名なことに加え、草間さんのアーティストとしての才能の無限さ、彼女の芸術が永遠に生き続けるという意味を込めた。タイトルの∞マークは、配給会社パルコのアイデアだが、とてもいい。アメリカでも付ければよかったなと思った。
【公開情報】11月22日(金)から渋谷PARCO8F WHITE CINE QUINTOほかで全国ロードショー。関西圏では大阪ステーションシティシネマ、シネ・リーブル神戸、京都シネマ、MOVIX堺で同日公開。