「行ってきます」と出掛けた家族が必ず帰ってくるとは限らない。無事に帰ってきて当たり前だと普段私たちは思っているけれど、本当のところは帰ってくるまでわからない。例えば、東日本大震災などの自然災害。例えば、不慮の事故。例えば、不幸にも事件に巻き込まれてしまった時。かつて戦時中は出征して不帰の人となった人たちもいた。帰ってこない家族を待っていた人たちは、その不在を受け止めて、どう生きていくのだろう……。
東海テレビドキュメンタリー劇場第13弾「おかえり ただいま」(監督・脚本:齊藤潤一、プロデューサー:阿武野勝彦)は、帰ってこなかった娘と母の物語を中心に、ある悲惨な事件がなぜ起こったのか。二度と繰り返さないために、私たちに何ができるのかを問いかける映画だ。
■「名古屋闇サイト殺人事件」で娘を失った母
2007年8月、帰宅途中の女性が拉致、殺害、遺棄された「名古屋闇サイト殺人事件」。インターネットの闇サイトを通じて集まった3人の男たちが起こした短絡的で残虐な犯行は、社会に大きな衝撃を与えた。
光市母子殺害事件(1999年)以降、世間の耳目を集める悲惨な事件が起こるたびに、厳罰化を求める声が高まった。一方で、人権尊重を掲げるヨーロッパ諸国を中心に広がった、死刑廃止の世界的な潮流に賛同する声もある。死刑をめぐる世論が分かれる中で、娘の利恵さん(当時31歳)を理不尽に奪われた母・磯谷富美子さんは犯人らに極刑を求める訴えを粘り強く続けてきた。
事件直後から取材を続けてきた東海テレビの齊藤潤一監督は、2009年に「罪と罰~娘を奪われた母 弟を失った兄 息子を殺された父~」というテレビ番組を制作。<死刑を願う母>と<死刑を求めない兄>を対比した番組が、気丈にインタビューに応じてくれた富美子さんの望むかたちにはならなかったことに、胸のつかえを感じ続けてきたという。
報道部長だった3年前、現場ディレクターとして番組を制作するのが難しい年齢になったと自覚し、心残りだった宿題に向き合い、「富美子さんの思いに寄り添った作品を制作し、お詫びしたい」と、裁判記録やかつてのインタビューを綿密に調べて、家族の愛情をテーマにした脚本を準備し始めた。その後、取材ディレクターの繁澤かおるさんと富美子さんを訪ね、ドラマ化とドキュメンタリー取材の許可を得たという。
富美子さんは言った。「私は(事件のことを)忘れたいけれど、世間の人には覚えていてほしい。利恵が生きた証を」。
■富美子さんを取材した齊藤監督が抱えた宿題
取材に応じてくれた相手の思いにかなったアウトプットができているかどうか。長年、取材して原稿を書く仕事に従事してきた筆者にとっても、とても気になる点なので、齋藤監督に尋ねてみた。
「取材させていただいた感謝の気持ちは持ち続けているが、客観的に物事を捉えようとしている。我々取材者は、取材対象者と人間関係を作らないとなかなかいい取材はできない。だから入り込む。しかし、作品としてはそれが正解とは限らず、どこかで引いた客観的な目を持たなければいけない。
『罪と罰』を作った時も、今回の『おかえり ただいま』でも犯人側を描くことに関しては、磯谷さんにとってはもしかしたらウエルカムではない行為かもしれないが、制作者として引いた視点で見ると、そこは大切な要素だと思った。
取材対象者の思い通りの作品になるかどうかという葛藤はいつも抱えながらやっている。実際に後で相手から『そんなつもりじゃなかった』と言われたこともある。
今回も犯人である神田側を描くことを磯谷さんがどう思うのかは最後まで不安だった。オンエアの直前にお話しし、テレビ版を見ていただいた後で『神田の生い立ちには感じるところがあった』と言われ、ホッとした」
阿武野プロデューサーが補足した。
「『罪と罰』を放送したあと、磯谷さんは齊藤潤一ディレクターに何も恨みがましいことを言わず静かに受け取ってくれた。むしろそれで齊藤が心の中に抱えるものが大きくなったと思う。
今回も、利恵さんが生きた証を残す、事件を風化させないというのは、どういう表現がいいのだろうと考えてきた。表現は私たちが作るものだから、精いっぱい先のことを見ながら探っていく。作品にした時点では、加害者の神田の話を入れるのは、磯谷さんを傷つけるんじゃないかと思っていた。
一般的ですが、犯罪被害者は事件を忘れず、犯人を憎み続けていると思われている。だから、磯谷さんが『私は事件を忘れたい』と言った時にはびっくりした。事件に遭った人の言葉は重い。何のために忘れたいと言っているのか、何のために世間に覚えていてもらいたいと思っているのか。
もし私たちが、厳罰を求める母の一念というドキュメンタリー・ドラマを作ったとしたら、カタルシスを誘って共感を得られるかもしれないが、事件の深層とか、二度とこういうことを起こさない糸口からは遠ざかったかもしれない。単純化してしまうことは風化を誘うことではないか。見終わった後にモヤモヤするような表現の方が長生きするんじゃないか。結果的に、この表現が、磯谷富美子さんの願いと私たちの表現が、どこかで一致しているのかもしれない。そうであればいいなと思うようになった」
齊藤監督は断言した。「富美子さんも本当は忘れたいけれど悲惨な事件が二度と起こらないように講演会活動を続けている。取材された母の思いと制作者の思い。立場の違いはあっても、悲惨な事件が二度と起こらないようにという思いは一緒だと思う。見終わってモヤモヤしたという感想をいただけるのはうれしい。見ていただいた後にいろいろ考えていただけたということだから」
■「何気ない日常が人を育む」
約90分のテレビ版で「泣く泣く削った」インタビューを入れ込み、映画は112分の作品に。放映時のタイトルは「おかえり ただいま」に変更した。ミナコ“ムーキー”オバタが歌うオリジナル主題歌「HOME」に、歌詞として入っている言葉だ。
阿武野プロデューサーは言う。
「おかえり、ただいまと言い合える空間、何気ない日常がいかに大切か。磯谷理恵さんには父はいなくても、母と祖母がいて、その空間があった。加害者の神田司の側にはそれがなかった。その2人が社会の中で出会ってしまい、そしてこんな悲惨な事件が起こってしまった。迎えてくれる人がいる、何気ない日常が人を育む。今は、疲れて帰って来るお母さんを『おかえり』と子どもが迎えることもある社会だが、何も言わない関係性じゃないことが大事だと思う」
出掛けた家族が帰宅した時「おかえり ただいま」と言い合える社会。一人暮らしの家に帰った時に、玄関のドアを開けて「ただいま」と部屋に声をかける知人もいる。誰にとっても平穏な暮らしが安全に守られる社会であること。その大切さを守ろうとする強い気持ちが、もしかしたら富美子さんが言う<利恵が生きた証>を覚えておくことなのかもしれない。(大田季子)
©東海テレビ放送
【上映情報】京都シネマ、第七藝術劇場で公開中。