【代島治彦監督インタビュー】
1967年10月8日、学生たちが時の総理大臣・佐藤栄作の南ベトナム訪問阻止を図った第一次羽田闘争で、一人の学生が命を落とした。18歳の山﨑博昭、京都大学の学生だった。1958年生まれの代島治彦監督は、学生運動が過激化していくきっかけとなった闘争で死んだ一人の学生をめぐって、彼とかかわりのあった14人を訪ねて話を聞き、ドキュメンタリー映画を制作した。タイトルは「きみが死んだあとで」(上下巻3時間20分)。4月の東京での公開を皮切りに、関西でも京都シネマ(5/28~)、第七芸術劇場(5/29~)の2館で公開が始まった。この映画で何を描こうとしたのか。来阪した代島監督に話を聞いた。
あの時代とはいったい何だったのか?
――なぜ、この映画を作ろうと思ったのですか?
10・8山﨑博昭プロジェクトから依頼を受けて、2015年ぐらいからいろんなイベントの映像の記録係をしていた。僕は当事者たちよりも10歳若いから、彼らの同窓会的な雰囲気に対して部外者のような感じを持っていた。けれども、話をしたり書いた文章を読ませていただいたりするうちに、だんだん彼らの内面が見えてきて、10歳年下だった僕が見上げていた彼らの青春が少しずつわかってきた気がした。僕が見上げていたあの時代とはいったい何だったのか。彼らに話を聞くことで、それが見えてくるのではないかと思ったことが、まず一つの動機でした。
――同窓会的な雰囲気とは?
10・8山﨑博昭プロジェクトは、55歳で高校教師を早期退職した兄の建夫さんが、弟・博昭の生と死の記録をその後の時代に残せなかったという悔いがあって立ち上げたものです。山﨑博昭は中核派という組織に属していましたから、「山﨑博昭の死=中核派の闘いの中での死」という形で、セクトが抱え込んで利用されてしまったという後悔があった。それで改めて山﨑博昭プロジェクトを立ち上げて、博昭の手紙やノート、お母さんの家計簿まで、取ってあったものを全部ちゃんとした形で何かに残せないかと考えた。そこでプロジェクトを立ち上げ、本はできた。羽田・弁天橋のそばに鎮魂碑はできた。ベトナムにも博昭の死を紹介できた。それで目標は達成できたという感じだった。
僕はベトナムにも一緒に行き、記録係として撮影してきたが、ある同世代がお互いを慰め合う同窓会的な雰囲気にしか見えなかった。これで達成したと言っていいのか。若い人を全然巻き込んでいないし、世の中にあの時代が何だったのかということを残していない。山﨑博昭の死が、同時代に共有した人だけの物語でしかないじゃないかと思った。それで、この人たちの記憶を汲み出すことで、もうちょっとちゃんとあの時代を描けないかなと思ったんです。
――なるほど。
もう一つの動機は、2009年に出版された小熊英二の著書「1968」に対する彼らの批判を聞いたことです。小熊さんは僕より2歳年下ですが、上下2巻の分厚い著書で、全共闘運動は結局、自分探しだったのではないか、学生運動はフランスでもドイツでもアメリカでもイタリアでも起こったが、日本の運動が一番憂鬱で愚かだったのではと結論付けた。
それに対して、団塊の世代はすごく怒った。でも、下の世代から見ると、そういうふうにも見えていた。そのことに当事者たちはあまり気づいていないし、責任も取っていない。彼らは自分たちがやったことを「俺たちの時代はこうだった」と肯定的に語ります。連合赤軍や内ゲバの事件は特別な人たちがやったことで、自分たちはこうやって立ち上がって闘ったとしか言わない。結局、当事者たちは自分が生きた時代だから、自分個人の体験の記憶しかない。集合的な記憶になっていない。僕が「あの時代」そのものを描こうとしたような視点で、彼ら自身は描くことができないと思ったんです。
小熊さんの本に対する彼らのもう一つの批判は、当事者たちに話を聞かず、資料だけで書いたことが許せない、肉声を聞くべきだというもの。やはりちゃんと生の声を紡いで、あの時代の記憶を残さなければいけないのだなと思ったことも制作の動機でした。
ただ、僕も10歳下だから、当事者から「違うよ!」と批判されるのではないかと不安だった。でもこの映画に対しては今のところ、そういうことはない。映画を見た当事者から「こういう時代があって、自分はこの辺にいて、こういう体験しかしてないけれども、こうだったんだね、ということをもう一度認識する映画になった」と聞いたことで、意図したことがちゃんと描けたのかなと思っています。
山﨑博昭と青春を共有した人々の物語
――いろいろな人たちが登場しますね。山﨑さんの追悼プロジェクトの寄稿を監督が読んで、この人たちに会いたいという人たちをピックアップされたのですか?
これは、ある一つの青春を共有した人間関係の話です。山﨑博昭という人を軸にしたつながりの話。人生は、出会いとつながりで出来上がっている。特に青春時代、みんなが、どう生きようかと考えている時に出会う人たちは、お互いに影響を与え合う。それがどう絡み合いながら、山﨑さんが死んだ後も、絡みながらもつれながら別れていくみたいな。そういう一つの青春時代を描きたかった。
いろいろな友達がいて、それぞれがそれぞれの時代を生きてきた。それが集合的に組み合わされると、ある時代の一筋の流れが見えてくる。もちろん、それで全部ではなく、いろいろな流れがあったと思うが、その流れが見えてくることで、あの時代をよく知っている人だけでなく、全く知らない人にも、そういう時代が日本にあって、そういう青春があったということをわかってもらえるのではないかと。それに刺激を受けて、今の自分ではいけないのではないかとか、これからどう生きていこうかとか考えるきっかけにもなる。日本の戦後史の中で、何がどうなったのかがよくわからないと言われている時代をちゃんと残せるんじゃないかと思ったんですね。
――登場した個性的な皆さんは誰一人、選んだ人生を後悔しているようには見えません。こんなふうに生きてきた、誰に恥じることもない、みたいな。
ただ、抱えている葛藤はありますよ。高校時代から、その後生きた青春時代、自分で選んで、自分で考えて、自分でつまずいたり悩んだり苦しんだりした。全部自分でやってきた。その部分では言い訳も何もないから、潔い。だけど、ずっと抱えてきたことを、今だからこそ吐露できるということがある。今まであまり人に話したことがなかった半世紀前のことを、今回初めて記憶として紡ぎだしてきた。にもかかわらず、かなり鮮明に覚えている。本人も驚くぐらい。今まで聞かれたことがないことを僕が聞いていたのかもしれません。僕は、なるべくその人の居場所でインタビューしました。追及せず、その人から言葉が出てくるのを待っていました。
その手法は、ナラティブ・ドキュメンタリーあるいは記憶映画。ドキュメンタリーって今、目の前で起こっていることを撮影することが多いと思うが、この映画で目の前にいるのは70代のおじいさんやおばあさん。彼らに高校時代があって、こういう青春があって、その記憶がこう残っていて、それがあの時代で。あの時代はどういう時代だったのか。今70歳を超えた彼らが、あの時代をどう見ているのかというのを紡ぎ合わせたかった。
人生って僕は記憶だと思うんですよ。イコールじゃないけれど、ニアイコールだと。そういう意味で彼らの人生、イコール記憶を尋ねていく話なんです。その記憶はその人の記憶ですから、同じ時間帯、同じ場所にもしいたとしても、他人のとは違う。それらの記憶を紡ぎ合わせる中で、人間ってこういうふうになっちゃうこともあるんだよね。人生ってこうなんだよね、ということが、あの時代を共有した世代だけではなくて、もっと下の世代にも伝わるものがあるんじゃないか、と。
映画を見た人が「いい表情で」と言ってくれるけれど、それは彼らがちゃんと輝いた若者だったから。輝いた若者だった頃のことを話す彼らは今でも輝いています。
何人かの記憶をつなぎ立体的で集合的な記憶に
――編集に時間がかかったのではないですか。
14人のインタビューの撮影時間は90時間を越えました。撮影する時は知らないことを次々と発見しながら撮っています。撮り終わった後に僕は全部ログを書き起こし、一人ひとりまとめた後でシナリオにして編集に入ります。字幕はあるけれどナレーションの説明がつかない映画ですから、ある人がしゃべったことと、別の人のしゃべったことが一つのナラティブな物語としてつながっていくかどうか。つないでみないとわからない。なおかつ、その人がどういう感情でどういう表情で、その言葉をしゃべっているかがすごく重要なんです。どういう語尾でしゃべっているか。その語尾と次の人の言葉の頭がつながる。それが重要なんですね。
例えば大手前高校の自治会祭のエピソードがありますが、それも何人かの記憶をつないでいって立体的で集合的な記憶になっていく。それをいくつもいくつもつないで編集しました。結果的に3時間20分以上に短くはできなかった。上巻96分は山﨑博昭が死ぬまで、下巻104分は死んだ後、長編小説の上と下のイメージです。
――見る前は長いなと思いましたが、あっという間に見てしまいました。
実は編集している時に、リズムを作るために村上春樹の「ノルウェイの森」を読んでいました。村上春樹が1968年に大学に入学した時から始まる物語です。入学して起きた約2年間の出来事を、37、8歳になった主人公が思い出しているところから始まる話で、僕の映画と同じ死者を巡る物語。親友が自殺した。親友の恋人と恋人同士になりそうになったが、彼女も自殺した。その二人の死者を抱えながら自分が生きてきたことを描いている。そこに「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉があった。
ああ、僕が作ろうとしているものもそうなんだな。14人の登場人物の中にずっとあり続けている山﨑博昭の記憶。それを汲み出して映画にしようとしているんだな、と。「真実はこうだった」と声高に暴き立てるような映画ではなく。一人死んじゃった。その死を抱えて生きてきた。その死を時代がどう飲み込んじゃったのか。あるいは利用したのか。一人ひとりの記憶は、証言ではない。あやふやな記憶で間違っているかもしれない。思い込みかもしれない。その後の人生の過程で、自分の都合のいいように記憶を捻じ曲げているかもしれない。それでいいと思うんです。だから僕は追及しないんです。
その人が自分の心の井戸から汲み出してきた言葉で、記憶でいいんです。それを濾過された上澄みのようにつなげていって、物語じゃないけれど、なんて言ったらいいのかな、あの時代の手触り、一つの世界……感じてもらえる世界観ができていたらいいなと。
そういう意味では、リアルな皆さんの記憶の言葉を勝手に僕がつないで、一つの物語にしてしまったと言えるかもしれない。14人の一人ひとりの言葉で、一つの大きな物語を編集した、編んだという感じはありますね。
山﨑博昭は今の時代をどんな気持ちで見つめているか
――冒頭、弁天橋で代島監督が山﨑博昭の写真を掲げているシーンがありますね。
あのシーンは雨の日に撮りたかったんです。山﨑博昭がどういう気持ちで今の時代を見つめているかなと思ったら、やっぱり泣いているかなと思った。なので、雨が降っていて自然に雨粒が落ちていくようなイメージがあったんです。晴天の日じゃなくて土砂降りの日の明け方。天気予報で狙っていって撮影しましたが、4回ぐらい空振りしました。学生服を着た僕が山﨑博昭の写真を掲げているのは、どういう人間がこの映画を作ったかを最初に宣言したいという思いから。山﨑博昭と僕が一体となって話を聞くぞ、見ているぞという思いで作ったのです。
映画に盛り込めなかった残りの撮影の中からの面白い話と、僕自身の少年時代と青春時代の恥ずかしい話、高校時代に最初に刺激を受けた日大全共闘の秋田明大さんに会いに行ったインタビューを盛り込んだ書籍「きみが死んだあとで」が6月末に晶文社から出ます。400ページを超える本になりましたが、映画で興味を持たれたら、ぜひ読んでほしいと思います。
――ありがとうございました。
「きみが死んだあとで」公式WEBサイト http://kimiga-sinda-atode.com/
©きみが死んだあとで製作委員会