【杉岡太樹監督ロングインタビュー】
トランスジェンダー女性、サリー楓に密着した杉岡太樹監督のドキュメンタリー映画「息子のままで、女子になる」(英題:You decide.)が全国で公開されている。昨年の米国・ロサンゼルスやタイ・バンコクの映画祭で、ベストドキュメンタリーを受賞した話題作だ。関西では、9月11日(土)から大阪のシネ・ヌーヴォと神戸の元町映画館で、24日(金)から京都みなみ会館で公開される。来阪した杉岡監督に、フェミニストを自認する筆者が話を聞いた。(大田季子)
決めるのは誰? 「私」じゃなくて「あなた」なの?
――映画で楓さんが言う「You decide.(あなたが決めて)」が英題にもなっていますが、「私が決める」と言ってきたフェミニストとしては合点がいきませんでした。なんで人に決めてもらわなあかんの!?って。
まさに。多くの人たちがそういう運動をした結果、やっと認められた今ですからね。
――映画を見て私が今思っていることは、彼はやっぱり男の子なんだということです。男の子は人のまなざしの中で生きています。ええかっこしいも含めて。女に見られたい自分を、彼は頑張って一生懸命やっている。だから、「あなたが決めて」と言っているんだなというふうに感じました。
人の目線で生きるというところは男性的であると。面白いですね。
――実は以前、常井美幸監督の「僕が性別『ゼロ』に戻るとき 空と木の実の9年間」という映画を取材して、ジェンダーブレッドのチャート図を知りました。一口に性と言っても4つのカテゴリー(性自認、性指向、身体の性、性表現)があって、それぞれ個別に見ていったら、一人ひとりみんなレインボーという話です。それが私はすごく腑に落ちていて、自分の性は人に決めてもらうことではなくて「自分が決める」ものなんですよね。
杉岡さんは何を目的にこの映画を作ったのですか?
まず、「You decide.」の違和感についてお話しします。僕もそれ、すごくよくわかります。
以前50人ぐらいの外国人の前でこの映画の話をした時、LGBTに相当する人たちが多く、質問で「なんで I decide.じゃないのか?」とすごく聞かれました。それは今まで I(私)が決められないことは理不尽であると、自分たちが闘って獲得してきた。その結果の今であるのに、その現実をちゃんと理解しないでYou decide.と手放してしまうのは、あまりにも過去に対するリスペクトが不足している、自分勝手だという意見でした。それで僕もすごく考えて、確かにそうだなと思う気持ちもあります。
「You decide.」はサリー楓から社会へのSOSかもしれない
一方で、映画の中で彼女が最後に鏡を見ながらモノローグで語る場面で言っているように、自分で決めるとなると、男子時代の自分が脳裏にこびりついている。鏡を見た瞬間に男子時代の自分の顔も思い出せるし、I が決めるとなると、ゆらぎが出てしまう。つまり彼女はまだ女性である自分が確立していない。性自認は女性だけれど、社会にとって自分が女性として存在できているかという意味での確信が持てていない段階だと思うんです。トランスしてまだ1、2年という段階で彼女が「I decide.」というのは理想的ではあるけれど、現実はそうではない。「You decide.」と言っているのは、すごく正直な気持ちじゃないのか、と。自分の中のゆらぎだったり、自信のなさだったりが、くっきりと表現されている。だからこそ社会に支えてもらいたい。僕はこの言葉を、彼女の社会に対するニーズというかSOS、一緒に自分の中の女性性を確立してほしいという呼びかけのように感じたんです。
もっと言うと、僕も先入観の中でLGBTの人たちは「I decide.」と言い切る人たちである、と ある種レッテルを貼って見ていたところを彼女に覆された。それが面白いなと思ったことが、この映画を撮りたいと思ったきっかけでもありました。
――なるほど。だけど私は、理想としては、彼が男の子だった時代を受け入れた方が生きやすいだろうと思うんですよね。
彼、ですか?
――うーん、彼女ですね。。。
いや、僕それ、どっちでもいいです。それこそ「You decide.」で「彼女と見なければいけない」という縛りの中で、彼女と言うのは窮屈だと思うので、ご自身が受けた印象で言っていただくのは全然かまわない。シンプルな質問として、彼という言葉が出るのであれば。
――うーん、なんかね。男の子感を感じてしまったんですね。社会に認められることを重視しているところとかが、男性的だな、と。どちらかというと、フェミニストは「社会? どうでもいいのよ。私が私として気持ちよくやれたら」と思ってしまうので。
なるほど。男性的な部分はたくさんあると思います。
――私はそれぞれレインボーでいいと思うんですけれど。はるな愛さんが言ったように、楓さんはことさらに肩ひじ張って、頑張っている気がします。
でも、最初って誰でもそんなもんじゃないですか。例えば地方から東京に出てきた人が、もともと東京に住んでいるヤツよりも、山手線の駅名を全部覚えたりとか、東京に馴染もうとして頑張ってしまう。ジェンダー抜きにして、僕にもそういうところはあると思うし。そういう空回りしてしまう感じで揚げ足を取りたくはないです。その上で、それを自分の現状認識として彼女にも認めてほしいですね。そうすると彼女自身、だいぶラクになるんじゃないかと思うだけです。
「ミス・インターナショナル・クイーン」への出場で何を目指したのか?
――監督がプレスシートに「楓とスティーブンと僕、考え方も目的も違う三人が中心となって、様々なバックグラウンドを持つ出演者や制作陣と共に作りました」と書いていますが、それぞれの目的と考え方はどのように違っていたのですか?
楓さんはこの映画で自分の存在を世の中に知ってもらいたいという意識があった。その裏には多分もっと、自分に続く若いトランスジェンダーのため、他人のためというのが出てくると思うんですけれど、あくまでも自分の主張や考え方を、世の中のより多くの人たちに知ってもらいたいということで映画に出たと思います。
ですが僕は、彼女の言葉の拡声器になる気は全くなかったし、彼女の主張を世の中に伝えるために映画を作ったわけではありません。そこはある種せめぎ合いというか。簡単に言えば、彼女のカッコいい部分だけを映画にする気は全くなかった。本人が見せたくない部分、恥ずかしい部分も、僕としては見せたい部分でしたしね。
――スティーブンはどうでしたか?
スティーブンは僕のように理屈っぽくない。僕が楓を撮るだけで、何でもOKという感じで、自由にやらせてもらえました。楓さんも彼も僕も、より多くの人がより自分らしくいられる社会を目指すという大きなビジョンは同じです。でないと作品にならない。
スティーブンは、楓が「ミス・インターナショナル・クイーン」というコンテストにトライして勝つために、彼女のトレーナーをしていました。僕は「なんでこの子はこのコンテストに出て勝たなきゃいけないんだろう? 本当に彼女の出るべきコンテストなのかな」と思いながら撮っていました。映画の中でそれが表現しきれたかというと、ちょっと見る人に委ねるしかないんですけれど。彼女のチャレンジに対して僕自身が歩みを共にしていたという感覚はないですね。
――はるな愛さんも「何か違うんじゃないの?」と言っていましたね。楓さん本人も薄々気がついているような気がしなくもない。カルセール麻紀さんも辛口のコメントをしていましたが、人に見せるものとしては、まだ完成されていませんでしたね。
その辺、彼女の現状認識の甘さが出ていたのかなと思います。だからあのシーンを一切外したりすることなく、そのまま映画にしました。
楓さんの父に撮影中の映画を見てもらった意味とは?
――映画に出てくる楓さんのお父さんに、完成した映画を見せたのですか?
はるな愛さんと対面するシーンまでを見てもらいました。お父さん自身が登場するシーンは、その時に撮影をしているので見ることはできません。それを抜いたバージョンを用意して、スタジオで見てもらいました。
――お父さんにとっては、それでもやっぱり息子さんなのですね。
そうです。僕は、楓さんの映画を見せつけてお父さんを苦しめようという意図はありませんでした。そう受け取られたとしたら仕方がないのですが。
お父さんに見てもらおうと思ったのは、最初に家族で久しぶりに会食したシーンを撮影した時、僕はお父さんに‟断固認めない父親像“を感じなくて、何が起きているのかをちゃんと伝えられていない人だと思ったんですね。そういう状態でお父さんが楓さんのジェンダーを認められないでいることを、理解のない父親のように描くのはあまりフェアじゃないと思った。説明されてないのだから、わからなくて当然だと思う。
2回目に会いに行った時は、僕が映画の撮影を通して楓さんのことを知っていって、なんで女性としてありたいのか、とか、どういう気持ちで、どういうことを経て今、女性として生きているのかということを撮れたと思ったので、その彼女の姿をお父さんに見てもらって、伝えた上でどう思うかを知りたいと思いました。
僕としては、今となっては驕(おご)りですけれど、見てもらったら親子のいいシーンが撮れるんじゃないかと思っていた。少し理解を示すとか、歩み寄りがあるかなと思って、どう思ったかを聞いたんですけれど、一切動くこともなく。僕にとっては絶望的な瞬間でしたけれど、お父さんにとっては息子として共に過ごした18年があるわけだから、それが変えられないというのはすごく筋が通っているというか、当たり前だよなと思います。
その揺るぎない現実、そんなお父さんを僕たちはどう見るべきかということが、多様性をどう受け取るかという大きな課題に通じると思います。僕一人では二人の間にある摩擦を解決できないし、お父さんと楓さんの関係をどうすることもできないんですけれど、少なくとも映画でお父さんの姿を映し出すことで、見てくれる人に一緒に考えてもらったり感じてもらうことで、何か少しでも社会を前進させることができるんじゃないかなと思って、あのシーンを入れました。
――お父さんは息子のやっていることを認めないとは言ってないですよ。
そうですね。
――だから、許容しているんですよ。
そう思います。
――応援してはいないけれど。そこを楓さんが「応援してくれないとダメ」と思うとしたら間違っていると思います。
もちろん。おっしゃっていることは彼女自身わかっていると思います。僕としては、はるな愛さんも言っている通り、映画でお父さんがあのように出てくる時点で無償の愛、父親としてものすごい責任というか、大きなものをお父さんは表現していると思います。本当にかけがえのないものを、僕も一人の監督として、お父さんから与えられたなという感謝の気持ちをものすごく持っています。
――楓さんご本人は、でき上がった映画を見て「いいものができた」と思ってらっしゃるのでしょうか?
本人の代弁をすることはできませんが、僕が受けた印象としては、自分が想像していたものとは違うと思います。カッコ悪い部分とか見せたくない部分とかもたくさん出てきたと本人も言っていますし。ただ、そういうものは自分では表現できないものだと思うんです。SNSとかだと、ついカッコつけちゃうし、都合の悪いことは言いたくない。その部分が表現されつつ、賛否はあると思うのですが、映画を通してある程度、世の中に彼女の存在を認める人が出てきているということが、彼女にとって新しい発見やある種、自分をより認められる自信につながっているのかなと思います。僕も結果的にそうなっていたらいいなと思っています。
タブーを作るのではなく、コミュニケーションを通じて発見しよう
――私たちは初めて人と会う時に、パッと見た印象というか、いろんな符号や記号みたいなものがあって、「この人は多分、こんな人」というところからコミュニケーションしていきますよね? 親しくなったら「え、そうだったの⁉」ということがあっていいんですけれど、コミュニケーションを始める時に、あらかじめ既知のもの、知っている物差しで人を見ないようにすることって、すごく疲れるし、難しいですよね。
はい。僕が思うのは、そこで無理したりしないこと。第一印象で判断するのは人間の本能でもあると思うんですよ。多分DNAに組み込まれている生存本能でしょう。だから、気づくための教育は大事ですけれど、単に否定したり矯正したりするのではなく、ミスを犯してしまった時に、どうリアクションするか。何かしてしまった後に素直にちゃんと謝るとか、ちゃんと話し合うというか。そこを補強していく方が僕は豊かな社会になるんじゃないかと思うんです。
これやっちゃダメ、あれやっちゃダメとタブーを作っていくと、無限に膨れ上がっていって。ジェンダーって今ですら100通り近くあるともいうじゃないですか。もっと言えば、人の数だけジェンダーの数があって、すべての性別はグラデーションの中にある、と。人それぞれルールがあって、となると何も言えなくなってくる。そしたら、人と関わらないほうがいいなという社会になっていく……。
――今、若干なってますよね。
なってますよね。僕はだから、それよりも、コミュニケーションを通して発見していって、僕が映画の中で楓さんにした質問で「すべきではない」「あの質問は失礼だ、失礼な監督だ」というコメントを目にすることもありましたが、それは素直に受け止めます。僕の本意ではないとしても、そうなってしまった自分。でも「だからダメ」ではなく、そこから生まれる対話、なんで僕がその質問をしたのかを僕は聞いてほしいし、そこの意図とかをもっと探っていく方が、それこそが本当のダイバーシティ、多様性を認めることになるんじゃないのかなと……
――その方がカルチャー、耕している感じがしますよね。
そう思いますよ。反省するところはしていますが、意図があれば差別をしていいかというと難しい問題なんですけれど、でも僕は意図というものを大事にしたいなと今も思っています。どういう意図でその言葉、コミュニケーションが生まれたのかということは、やはり大事にしていかなきゃいけないんじゃないかなと。
――監督が楓さんに初恋の話を聞いた時にも……。
(苦笑)それです、まさに。他にも、体のことを聞いた質問とかも、当事者の人からの「すべきじゃない」という否定的なコメントをいくつか読みましたね。
――私は、それはいいと思うなあ。「性表現」は見た目で人が判断できますが、「身体の性」「性自認」「性指向」は、まさにそれぞれが違うところなので、事実として、あなたはどうなの?と聞いていいのでは?
そう思います。例えば、体が男性性を帯びている、男性器を持っているからと言って、僕はその人の女性性を否定しているわけではない。それを隠して、聞かないというのはおかしいと思うんです。思考停止につながる。そうすると何が起きるかというと、銭湯やトイレの問題が結局、本当の議論がないまま埋もれてしまう。いつかはぶち当たる問題なんだったら、自分たちの認識をちゃんと教育して、体の性と心の性とふるまう性と性指向という知識につなげるために、ちゃんと話し合うべきだと思います。その上で尊重すればいいわけであって。聞いたことによって傷つくという問題ではないと思います。
――そう思います。初恋の質問は頑なにシャットアウトされちゃったのは、セクシャリティはプライベートなことだという楓さんのメッセージですね。
そうです。
――そうなんだねと思って見ました。
まさに、セクシャリティとジェンダーの違いをあそこで表しているんですね。
――でも、お父さん、本当に尊敬しますね。
お父さんがああやって存在してくれていることは、彼女にとって実はものすごくプラスだなと思っているんです。ものすごくいいお父さんだなと。ああいう人が本当に社会を支えている人なんじゃないかなと思います。豊かな社会を作るために学ぶことがいっぱいありましたね。
僕には子どもがいないし、お父さんと同じ立場にないから想像の話になりますが、僕だったら絶対逃げます。映画に出ないです。ただ、あのお父さんを見た後は、あらゆるシチュエーションにおいて、自分もこうありたいなと思いました。
――大人でしたね。
ものすごい誠実さです。
――お父さんが立派だから、楓さん、息子としては苦しいのかな?
その辺り、本当にわからないですけれどね。これは僕の推測というか、映画を撮った僕の一つの帰結ですけれど、彼女が女性としてありたいというのも、お父さんの息子への期待に応えられない、男性としての自分を認めてもらえないというところも、彼女の性自認にとって影響はあったんじゃないかなと思っています。
性自認は揺らぐもの。その中で世界は豊かになっていく
――性自認って揺らぐことがあるものでしょうか?
僕は揺らぐものだと思います。トランスを続ける人だっていますし。
僕もこの映画を通して、自分は本当に男性だろうか、とか考えるようになりましたね。この映画を始めるまで、自分が男性であるのは、女性を好きだから男性であると定義づけていました。つまりジェンダーとセクシュアリティがこんがらがっていたのです。この映画で知識を入れたことで、僕は揺らいでいます。別に自分を女性だと思っているわけじゃないんですけれど。自分が思っていたほど、男性性を纏うために頑張らなくっていいのかという、ラクな気持ちにはなったので。僕の実感としては、ゆらぎのあるものなのじゃないかなと思います。
――最初に私が言った「You decide.」と「I decide.」の問題でいうと、はるな愛さんは「I decide.」を突き進んだ人だと思うんです。
まさに。
――楓さんは、はるなさんに会って、少しラクになったんじゃないですかね。
そうですね。それは彼女も言っていて、その通りだと思いますね。
――そこはね、フェミニズムというかウーマンリブに出会う前の私と、出会ってからの私の差みたいなものがきっとあって、自己中と言われるかもしれないけれど、自分で決めていいというところに立った爽快感というか、空の高さというか、そういうものが楓さんにもあるといいなと思います。
そうですね。僕は、この映画の英語のタイトルは「You decide.」なんですが、日本語のタイトルを「あなたが決めて」とはしたくない。それにはいろいろ理由があるんですが、僕としては彼女の「You decide.」はすごく弱いと思っていて、確立していない。結局、「I decide.」なんですよ。だって「You decide.」と言った時に「お前、男だな。気持ち悪い」というYouにも委ねることになるわけですが、彼女はそれを許さない。人が男だと見ても「いや、私は女性です」と。であるならば本当は「You decide.」とは言えないと思うんですよ。
――そうですね。
やはり「I decide.」があった上で、その縛りの中での「You decide.」なんです。どこを切り取るかという話ですけれど、本質的には結局は「I decide.」ではないかと。「You decide.」はちょっと都合がいいんじゃないかなと。
――そこにやはり、他者からの視線によって生かされる男性性を私は感じてしまうんです。
(笑)それ、書いてくださいよ。面白いと思います。
それは今まで言われたことなかったので。僕はそれで彼女の女性性が侵されたとは思わないし、そういうことを彼女自身も知りたいと思います。
――人がどうであろうと、私は私で、私はこうだ、であっていいと思うんです。だから私は日本語のタイトル「息子のままで、女子になる」にはとても共感します。
ありがとうございます。
タイトルも、僕がすごく怒られがちなところなんです。なんで伝わらないのか不思議なんですけれど、僕が彼女を息子として見ているのではなく、それは映画を見ればすぐにわかると思うのですけれど、女性として存在する、性自認が女性で女性として社会に生きるトランスジェンダーである彼女が、お父さんにとっては息子であるという側面を持っている。そのことは彼女の女性性を何も損なわないと思うんです。
――否定しませんよね。
そう。ジェンダーですから。ジェンダーって社会的な性で、自分が自分をどう見たいか。それこそ「I decide.」。お父さんが息子と言おうが、女性であることは何も減らないし損なわれない。この作品を通して、僕はそれがジェンダーというものの理解になりました。ある種、ジェンダーって強靭な、崇高なものだなと思ったので、このタイトルを付けたんですけれども、そこが全然理解されずに……。
――お父さんにしてみれば、わが子を息子として育てた時間というのは、かけがえがないものです。消しゴムで消すわけにはいきません。楓さんは昔の物は捨てちゃったと言ったけれど、お父さんの体には、わが子との思い出や感触が染みついている。抱っこした時の感じとかも含めて、ここにある。
まさに。それを消す必要があるかどうか。社会がアシストするというか、社会がその両方を認めることができれば、お父さんのその記憶を消すことなく、彼女が女性としてスムーズに生きることができると思う。僕はこのタイトルを、そうであることが当たり前なジェンダー認識が広まるといいなと思って付けたのです。
――楓さんはこのタイトルに難色を示しましたか?
インタビューなどで「最初は嫌でした」と言っていましたが、僕に対しては「いいですよ」と。もちろん、なぜこのタイトルにしたのかを説明しましたけれどね。
――であれば、周りの人たちがタイトルに対しておかしいんじゃないのと監督に言うのですか?
結構言われることが多いんです。取材でも必ず聞かれます。
――楓さんは父の息子であって、これからは女として生きていくというタイトルですよね?
そう、シンプルじゃないですか。それを認められる女性性としてのジェンダー概念があったほうがオプション広いし、誰も傷つけない。
――豊かだと思います。ありがとうございました。
「息子のままで、女子になる」公式サイト https://www.youdecide.jp/
©2021「息子のままで、女子になる」