2021年11月に惜しまれつつ亡くなった瀬戸内寂聴さんの生誕100年を記念して作られたドキュメンタリー映画「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」が、5月27日(金)から緊急公開される。関西での上映館はテアトル梅田、シネ・リーブル神戸、アップリンク京都。公開に先駆けて、ゆかりの地・京都で5月19日、特別試写会が行われ、上映前に中村裕監督(62歳)と寂聴さんの最後の秘書・瀬尾まなほさん(34歳)のトークイベントがあった。当日の様子を紹介しよう。
【5/19京都トークイベント採録】
――寂聴さんから親しみを込めて「裕(ゆう)さん」と呼ばれていた中村監督は、17年間にわたって寂聴さんに密着しました。誰も知らない瀬戸内寂聴がスクリーンによみがえりますね。
中村 気が付いたら17年間たっていました。僕自身は先生が亡くなった実感がなく、まだそばにおられるような気がします。
瀬尾 瀬戸内が亡くなって半年がたちましたが、私もスタッフたちも心の整理がついていません。今回、映画で生前の瀬戸内の姿が見られることは、私にとっても皆さんにとってもうれしいことです。瀬戸内の元気な様子や生き様を、映画を通してご覧いただければと思います。
中村 おととい先生の故郷の徳島で上映会をしました。僕は故郷のない人間ですが、先生に会いに来ていた京都は(と言ってもほとんど嵯峨野にしか行ったことがないのですが)、まるで故郷のようで、上映会でこうして戻ってこられてうれしいです。
最初に先生にお目にかかったのは2004年。それから毎年1本ぐらいずつ、いろんな番組を作らせてもらいました。まなほさんが秘書になられたのは2011年でしたね。
2006年に「残したい言葉」という番組を作ったあたりまでは、先生がちゃんとお坊さんの格好をされて、カメラマンも録音の人もいて、ごく普通のテレビ取材という形でやっていました。その後2009年ごろに「あんた、私が死ぬまでちゃんと記録を撮って、作品として残しなさいよ」と言われました。
おそらく先生は、僕があまり生き方が上手じゃないと思っておられたので、それでちゃんと生活の足しにして、独身の僕に「ちゃんとお嫁さんをもらいなさい」と母親のようにお節介を焼いてくださった。それからは自分で家庭用カメラを買って、寂庵にお邪魔して本を積んだ上にカメラを置いて、雑談しているところをずっと撮るスタイルで取材を進めてきました。
映画にというお話が出たのは、2018、9年ごろです。2015年にNHKスペシャルで「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」(ATP賞ドキュメンタリー部門最優秀賞受賞)を作っていたので、同じことをもう一度するのもどうかなと思っていたので、映画という形にすれば、より幅広い人たちに見ていただけるのかなと。映画未経験で全く分からなかったのですが、先生に背中を押していただいたので、今日を迎えることになりました。
――映画の中で、監督と寂聴さんの関係性の変化も感じられますね。どのような関係と言えますか?
中村 母親のようでもあり、親友のようでもあり。これだけ何でも打ち明けてお話しできる人は先生だけ。両親もすでに亡くなっていましたので、親戚や肉親に言えないようなことも先生にはしゃべっていましたね。先生も僕には割といろいろなことを話してくださった。今考えると幸せなことですね。
――瀬尾さんは大学卒業後に寂聴さんの秘書になられ、66歳の年齢差がありながらも意気投合され、メディアにも寂聴さんと一緒にたびたび登場されていました。そんな瀬尾さんから見た寂聴さんはどのような方でしたか?
瀬尾 一言で言うと魅力的な人でした。これから私の人生はまだ長いと思いますが、それでも瀬戸内ほどの魅力的な人には多分出会えないと言い切れるほどです。優しくて思いやりがあって、志が高かった。
――瀬尾さんからご覧になられた中村監督は?
瀬尾 私も普段は「裕さん」と呼ばせていただいているのですが、本当に女の人の心の隙間に入ることがうまいというか……理解力があるんですね。話をしていて、すぐに「自分の言いたいことをこの人は理解してくれている」と安心させてしまうところがあり、その包み込むような優しさが瀬戸内にとって良かったのかなと思います。
中村 今日はだいぶ持ち上げていただいていますが、先生の仕事面をすべてマネジメントしていたまなほさんにとっては、本当は僕がいることで、やりにくいところがいっぱいあったと思います。今日書かなければならない原稿があるのに、僕が訪ねてきて、やきもきしている場面がいっぱいあったと思うんです。
瀬尾 はい。
中村 先生に直接電話して、僕が勝手にスケジュールを決めたこともあったので、そういうところは本当に申し訳ないことをしたなと思っています。けれども僕は、まなほさんが晩年の先生に付き添ったから、あれだけ最後の最後まで仕事ができたのだと確信しています。
先生はまなほさんがいないところで原稿を引き受けてしまう。まなほさんは「なんでこんな原稿を引き受けたんですか⁉」と言いながら、上手におしりをたたく。そんな風に手綱をさばく様子を何回も見ました。先生がずっと若々しくいられたのも、まなほさんの存在がとても大きかったと思います。
瀬尾 完成した映画を見て瀬戸内に会えた気がします。中村さんはカメラをずっと机の上に置いて、隠し撮りといっても過言ではないほどさりげなく撮影していました。瀬戸内もカメラがあることを意識せず、普段通りに振舞っていたので「ああ、先生ってこんな風だったな、こんな風に笑ったよね」ということが、昨日のことのようにありありと思い浮かびます。それを見ることが寂しくもあり、また先生に会えたと嬉しくもあり……。映画をご覧いただく方からどのような感想をいただけるのか、私もとても興味深いです。
中村 まなほさんは先生が亡くなられた悲しみが想像以上に大きかったと思うので、動いている姿を見るだけでもお辛かったと思うので、映画を見て「会えたような気がする」と言っていただいてうれしいです。僕はまだ実感がわいていないんですけれど、これからも先生を身近にいると確信しながら生きていけるような気がします。
――映画化にあたって苦労した点はありますか?
中村 素材の量としては400時間ぐらいありました。番組用に撮った素材はテレビ局に著作権があるので使えませんから、それらを除外して、自分で著作権を持っているものから編集していきました。基本的にインタビューという形式ではなくて、収録されているのは雑談です。それもお酒が入って話していることが多いから、撮った後は何をしゃべったのか、全然覚えていません。それを後から書き起こししながら見て「あ、こんなことしゃべっていたのか」と気づくのです。
コロナになって予定していた取材がほとんどできないまま日にちがたってしまいました。
先生が元気なうちにご覧いただいて「なんであんなところ撮っていたのよ!」と叱られることも想定していたので、亡くなってからすぐに編集作業をするのはモチベーション的には難しかったです。
亡くなる半年前が最後の撮影だったのですが、その時の素材から見始めたら、僕のことを叱咤しているシーンがありました。映画にも出てきますが、「映画を作るのなら、ちゃんと本腰入れておやりなさい」と叱られているシーンです。それを見た時に、先生が僕のおしりをたたきながら、ある種のギフトをくださったのだな。これをちゃんと形にすることがご供養の一つなのだなと思い、そこからすごくエンジンがかかりました。
――映画が完成して、皆さんに見ていただけるということを、先生もきっと喜んでいらっしゃると思います。
中村 いや、「なんであんなにみっともないところを撮ったのよ」というお怒りの声もきっとあると思います。
瀬尾 それは間違いないです!
――映画で特に印象的なシーンや寂聴さんの言葉はありますか?
中村 「恋愛は落雷、カミナリと一緒だ」というのがあるのですが、それはあまり実践するとまずいですよね。それ以外では「道が2つに分かれたら、危ないほうに行った方が面白いよ」という言葉。恐れずになんにでもチャレンジしなさいという意味でおっしゃったのだと思うのですが、こちらはなるべく実践しようと思っています。
――生涯現役作家だった寂聴さんは、執筆の際にはどのような感じだったのでしょうか?
瀬尾 瀬戸内は最後の最後まで5本の連載を抱えていました。「ペンを持ったまま机に突っ伏して死にたい」とずっと言っていて、そういう風にはならなかったですが、書くことに対する情熱は生涯変わらず持ち続けていました。
ただ90歳超えてからは体力が衰えてきました。書くことはすごくエネルギーがいるし、エンジンもなかなかかからなくなる。締め切り直前になって「書けないわ。何を書こうかな」ということが結構ありました。そんな時に「じゃあ先生、今回は早めに断りましょうか?」と言うと「いや、もうちょっと頑張りたい」と。そして結局、ちゃんと締め切りに間に合うんです。もちろん徹夜をすることもありました。老体にムチ打ちながらでも、書く喜び、書き続けることへの情熱は持ち続けていました。それがすごく印象的で、最後まで作家だったなと思います。
――その姿を近くで見ることができたことが素晴らしいですね。
瀬尾 そうですね。本当に作家って別世界にいる人なんだなということを、瀬戸内の生き様を見て感じました。
――寂聴さんにとって京都は、どういう場所だったのでしょうか?
中村 徳島のご出身で、引っ越しが好きな方でした。まだ髪があるころに京都に旅行に来て気に入ったとおっしゃっていました。京都という土地柄にうまく馴染むには、努力もされたのだと思います。映画にも出てくる祇園のお茶屋さんなど、ご自分からいろいろなところに飛び込んでいって積極的に会話をされて、いい関係を築いてこられた。それで最後は、先生は「京都の人」になっていたと思います。
瀬尾 京都に関しては、中村さんがおっしゃった通りですね。
嵯峨野の何もないところに作り上げた寂庵を、瀬戸内はとても気に入っていました。私にも何度か「まさかここにこんなに長く住むとは。終の棲家にするとは思わなかった。でも本当にこんなにいいところはないよ」とおっしゃっていた。台所の定位置から座って庭が見えるんですが、いつも庭を見ながら「死ぬなら寂庵で死にたい」と。瀬戸内にとって、心から安らげる場所だったのだと思います。
――お二人とって寂聴さんはどんな存在だったのでしょうか?
中村 単なる取材の人間が、いろいろな体験をさせていただいた。こうやって映画を作って皆さんの前でお話しすることにもなったのは、やはり先生がいてくださったからこそ。僕にとっては大恩人であるし、親友でもあるし、ある意味、恋人のようなところもありました。僕にとっては心の中で今も生きている人だなと思います。
瀬尾 私も自分の人生がこんな風にきらめいてチャンスをいただけるとは思っていませんでした。人生を変えてくれた恩人だと思っています。
――ありがとうございました。
【取材を終えて】取材のために試写を見て、いかに自分が「寂聴さんロス」で寂しかったかに気づいた。学生時代に読んだ「瀬戸内晴美による瀬戸内晴美」(1981年、青銅社)で遭遇し、今も強烈に覚えている言葉がある。小説家になると婚家を出奔した当時を振り返った言葉で「私は成長したい、成長したいのにと身をもんでいた」という言葉だ。若き日の私が共感したその言葉に導かれるままに生きた壮絶な人生だったと思う。
沖縄返還50周年の5月15日、生きていれば満100歳になっていた寂聴さん。返還されて半世紀たった沖縄の現状も、ロシアのウクライナ侵攻も、もし寂聴さんが生きていれば、どんな言葉を語られただろうかと思わずにはいられない。(大田季子)
©2022「瀬戸内寂聴 99年生きて思うこと」製作委員会