1970年代に中学生・高校生だった私には、教科書に載っていたおぼろげな記憶がある『女工哀史』。1925(大正14)年に細井和喜蔵が改造社から出版した、日本の資本主義の黎明期を底辺で支えた女子労働者の生活記録を活写した名著といわれる作品だが、その成り立ちが、川西市にゆかりがあるという噂を小耳にはさんだ。一体、どんなゆかりが?
噂の真相を確かめるために、川西市在住の小田康徳さん(大阪電気通信大学名誉教授)を訪ねた。小田さんは2018年1月に『川西の歴史今昔―猪名川から見た人とくらし―』を神戸新聞総合出版センターから出版したが、その執筆中に、小躍りするような発見をしたのだという。
「著者の細井和喜蔵は京都府生まれ。関西の工場で職工生活に入り、労働運動に参加する中で東京へ流れ、1923年9月1日の関東大震災後に関西に移ります。『女工哀史』の自序に<兵庫県能勢の山中へ落ち延びて小やかな工場へはいり>とあり、本文には何度か<大阪の大資本家喜多又蔵氏の経営にかかる兵庫県猪名川染織所>の非常に具体的な記述が登場します。例えば、その年の秋、10月に兵庫県が行った『労働調査』の詳細な記述もあります。ですから私は、細井は妻としをと共に猪名川染織所で働きながら、この不朽の名著を書き続けていたのではないかと目星をつけました。しかし、猪名川染織所がどの辺りにあったのかは書かれていません。何とか知る手立てはないものかとあれこれ調べていたら、多田村新田だとわかったのです」
小田さんが最初に「多田村」という記述に出会ったのは、細井の妻・高井としをの著書『わたしの「女工哀史」』(2015年、岩波文庫版。底本は1980年に草土文化から出版)。<兵庫県の猪名川の上流の多田村にあった猪名川製織所へ入社した>という記述を見つけた時のこと。「“染織所”と“製織所”、細井の著書と名前が微妙に違っていますが、半世紀以上前の記憶を綴った著書なので勘違いであったろうと思います」
しかし、どちらの事業所の名前も『川西市史』には出てこない。小田さんは念のためと「猪名川染織所」をネットで検索してみた。すると、いくつかの資料が出てきた。
「さすがにネットの時代ですね。大原社会問題研究所の所蔵する労働争議に関する調査資料が出てきて、大正15年に発生した『猪名川染織所』の労働争議調査表に手書きのメモで『兵庫県川辺郡多田村』と記入されていたのです」
さらに、「猪名川染織所健康保険組合」の設立を認可した『官報』第4302号(大正15年12月24日)も発見。申請者は喜多合名会社(大阪市西区江戸堀南通二丁目十三番地)で、事務所の所在地は「兵庫県川辺郡多田村新田字下川原二百六十二番地ノ一」となっていたという。
「『わたしの「女工哀史」』によると、夫妻は猪名川染織所で働きながら、川沿いの農家に間借りして住み、和喜蔵はその部屋で『女工哀史』を書き続けました。二人にとって自然豊かな土地での暮らしは貧乏でも楽しいものだったようです。ところが、そんな暮らしは長くは続きませんでした。改造社から和喜蔵に、当時としては大金の百円の印税が送られてきたことで警察にマークされるようになり、半年余りを過ごした多田村を後にして再び東京に戻ります。1924(大正13)年2月23日のことでした」
『女工哀史』の出版はそれから約半年後の1925年7月。和喜蔵はそれから1月後、28歳の若さで命が尽きたという。身近な町の隠れた歴史に、先人たちの足跡が残っている。
小田さんは「今度出版する本は、毎年6月に10年以上続けてきた、けやき坂公民館(川西市)での地域と歴史講座で好評だった猪名川の話をもとにしています。川は、住んでいる人にとって、とても身近な存在なのですね。今回の本は市民講座でお話しするような語り口で、親しみやすくわかりやすい本になったと思います」と話す。
構成は「古代の猪名川」「中世社会の展開と猪名川」「近世の村と猪名川」「近現代の変化と猪名川」の全4章で、書き出しには川の情景に詠み人の心情を映す万葉集の歌を載せるなど、文学作品との関わりにも言及している。(季)